■シリア正教の典礼
シリア正教はキリスト教典礼の古来からの伝統を受け継いでおり、その祈りと儀式の古さ、美しさが非常に特徴的です。使徒言行録に記されているように、キリスト教の初期の信者たちはエルサレムでの迫害からアンティオキアに逃れてきました。アンティオキアはローマ帝国の東方地域における商業の中心地であり、この地で、彼らは初めてキリスト者と呼ばれたのです。聖ペテロはアンティオキアに39年に教会を設立したと信じられています。一方、シリアとメソポタミアの境界に位置していたウルホイ王国の首都であったエデッサにも、1世紀末までに教会が存在していました。その後の2世紀の間にエデッサはキリスト教文化の中心地となり、そこではアラム語のエデッサ方言であるシリア語が用いられていました。西側の教会は典礼言語にギリシア語を採用しましたが、主として移民のユダヤ人キリスト教徒と親密だった東方の教会は、アラム語を使い続けました。シリア正教会における典礼形式は、アンティオキアとエデッサの遺産を継承しています。
神の神秘を前にした時の畏敬と驚嘆の感覚が、シリア教会に浸透しています。シリアの典礼は、予言者イザヤがエルサレムの神殿で高く天にある御座に主が座っているのを見、その面前で天使たちが「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と唱えているのを見たという、そのビジョンの場面に満ちています。全てのシリア教会においては、エルサレムの神殿の幕を象徴し、聖所に「幕」が引かれています。そして聖所そのものが「聖所中の聖所」として、神その人が新しい契約のために登場したその場所として、捉えられているのです。この場面は、全ての典礼の初めと終わりに呼び起こされ、この場面に伴う驚嘆と神秘の感覚が典礼全てを満たすのです。
この、神の神聖さと共に在ることで惹き起こされる畏敬の念は、同時に、深い人間の罪悪感も伴います。イザヤが「私は災いだ。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と叫ばざるを得なかったように、シリアの典礼はこうした人間の罪の感覚、自分が聖なるものに値しないという感覚も強く持っています。典礼の主要なテーマのうちの一つは、「悔恨」なのです。しかし、この罪悪感と悔恨の必要性は、人間を引き上げて神の無限の栄光に与らせようとする神の無限の愛と憐れみの認識を伴うのであり、むしろ、その認識の表現ですらあります。このように、恐ろしい威厳と愛に満ちた憐れみの、上方と下方との素晴らしいバランスがあるのです。
シリア正教の典礼では、この教会のキリスト教の歴史を反映して、キリストの神性に重点を置きます。三位一体の教義はもっぱらギリシアで生まれ、ギリシア語の用語が使用されますが、シリア正教では「私たちの主イエス・キリスト」を通じて父に祈りかけるのではなく、キリストを直接に「私たちの神」として祈りかける慣習において特徴的です。「神の母」であるマリア、より正確には「神を生んだ女性」であるマリアに、大きな敬意が払われます。この深い崇敬は、マリアが生んだ人は真の神であったという事実を絶えず思い起こすことに基づいています。これは永遠の驚異の源泉であり、同時に驚くべき逆説なのです。詩ではこう謳われています。「あなたは腕の中に炎を抱き、焼き尽くす炎にミルクを与えました。祝福は彼にあり。無限の存在、あなたから生まれた存在に。」処女マリアに対するこの深い、聖書的及び神学的崇敬は、受肉を信じることの直接的な結果として、この教会で育まれてきたのです。
神の母への崇敬と共に、福音を告げ広め、そのために死することとなった預言者や使徒、殉教者たちへの崇敬も行われます。彼らはキリストの神秘的な身体の一部なのです。ここでもまた、聖人たちへのこの崇敬は、シリア正教の最も純粋な形式表現といえます。こうした崇敬は命に関する聖書的な見方に深く根付いており、その全てはキリストその人と福音の真のメッセージから生じているのです。シリアの典礼を通じて最も明瞭なのは、その聖書的背景です。その典礼は、まるで、旧約聖書と新約聖書が生まれきた正に同じ土壌から生じてきたかのようです。旧約聖書の「聖人」であるアブラハム、イサク、ヤコブ、モーゼ、ダビデ、預言者たち、そしてバビロンの炉に投げ込まれたダニエルと3人の聖人は、使徒たちと同様に身近な存在であり、キリストの神秘の生き証人として教会の中に生きているように感じられています。さらに興味深いこととして、「私たちの父アダムと母イブ」に頻繁に言及されることが挙げられます。救済の神秘は初めの男性と女性にまで遡り、キリストが死者の場所である閉ざされた場所に降りていき、復活の際に全ての死者の救済を宣言してアダムとイブを引き上げたとされるのです。閉ざされた場所でキリストの再臨の際に復活することを待ち続ける死者たちへの思いなしもまた、シリア正教の神学が多くを負っている初期のユダヤ人キリスト教徒の神学に私たちを引き戻してくれます。この感覚は死んだ信徒への崇敬が初期教会でいかに自然に育っていったのかを理解させてくれます。
シリア正教の典礼は、詩人・神学者たちの多くの作品に依拠しています。聖エフライム、サルグの聖ヤコブ、マッブグの聖フィロゼノス、聖歌司祭バレイ等の作品が、典礼に多く見られます。典礼は詩的な形式を持ち、規則的な音節のパターンに基づきますが、とても精神性に満ちています。それらは、まさに、キリスト教精神の真の表現と言えるでしょう。三位一体、受肉、十字架と贖い、復活と再臨、キリストの花嫁としての教会、神の母であるマリア、旧約聖書と新約聖書の聖人たち、「閉ざされた場所」にいる死者たちと天国への帰還の期待といった、これら全てのキリスト教信仰の神秘は、溢れるばかりの詩的な美によって表現されます。その作者たち(そのほとんどは修道僧)の中に神学的に深遠で驚くほど独特な詩が無尽蔵に生まれたのは、信仰の神秘について瞑想したためなのでしょう。典礼には、qolosやbo'oothosとして知られている長い応答歌と、eqbosやenyonosとして知られている短い応答歌があります。シリア式典礼の大いなる詩的美は、これらの歌に見出されます。
詩篇119:164の「日に七たび、わたしはあなたを賛美します/あなたの正しい裁きゆえに」に従って、シリア正教では7回の祈りの時間を定めています。@夕方、ramshoの祈り(晩祷)、A幕を上げる、Sootoro(これは詩篇91の「保護」という意味で、この祈りの際には「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ」という詩が歌われます)の祈り(終祷)、B夜中、lilyoの祈り、C朝、saphroの祈り(朝祷)、D3時制、tloth
sho`inの祈り(午前9時)、E6時制、sheth sho`inの祈り(正午)、そしてF9時制、tsha sho`inの祈り(午後3時)です。夜中の祈りは、3人のqawme「不寝番」(文字通り「立って」)が行います。教会の一日は、日没に晩祷を唱えることから始まります。今日では、修道院においてさえも、晩祷と終祷は同時に行われ、夜中の祈りと朝祷が同時に行われ、そして3時制、6時制、9時制の祈りが同時に行われるので、実際は祈りの機会は3回となります。
各々の時はそれぞれ特有のテーマを持っており、朝、夕方、夜という自然の移り変わりの感覚が共にあり、その感覚によって最も魅力的な詩的感情が生み出されることもあります。自然と超自然の世界が想像もつかない仕方で渾然一体となり、全的な感覚を生み出してくれるのです。世界の創造からキリストの再臨に至るまで、天使と見張り番を伴った天の高みにおける三位一体から地上の人間に至るまで、美しいこの移り行く世界の中での人間の罪と苦しみ、十字架による人間の罪の贖い、既に栄光に入っている預言者・使徒・殉教者たちと共に栄光に与ることへの人間の希望、閉ざされた場所で人の子の再臨と全ての復活を待ち望む死者たち。キリストの支配下にあるこれら全てがキリストの神秘全体なのであり、それら全てが全的な感覚として感じられるのです。
参照文献:
Patriarch Ignatius Aphram I Barsoum, The History of Syriac Literature
and Sciences. tr. Matti Mousa. (Pueblo, CO: Passeggiata Press, 2000).
Fr. Bede Griffith, The Book of Common Prayer of the Syrian Orthodox
Church, Kurishumala Ashram.
[シリア正教の正餐式]へ
(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/WOrship/index.html)
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