■序
アンティオキアのシリア正教会はキリスト教の誕生と同時に創始されており、これほど古い歴史を持ったキリスト教の宗派はほとんど存在しません。シリア正教会は最も早く確立した使徒の教会のうちの1つであることを誇りに思います。すなわち、新約聖書に書かれている通り、「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒言行録11:26)のです。
アンティオキアの教会はキリスト教世界においてエルサレムの次、2番目に設立された教会であり、使徒座としてのその名声は様々な文書にはっきりと記されています。カエサレアの教会歴史家エウセビオスの『年代記』によれば、使徒ペテロがアンティオキアで初めて司祭職制を創始し、彼自身がその最初の主教になりました。また、彼は、エヴォディウスが使徒ペテロの後を継いだとしています。エウセビオスのもう一つの歴史書、『教会史』の中では、エウセビオスは、アンティオキアのイグナティウスのことを「ペテロを継いで2番目のアンティオキアの主教となった彼の名は非常に有名であった」(III,
36)と記しています。
5世紀中頃に、アンティオキアの主教と、アレクサンドリア、ビザンティウム、そしてローマにおいてその位階に相応する人物を総主教(patriarch)と呼ぶようになりました。アンティオキアのシリア正教総主教は、はじめはその人自身の名前で呼ばれていましたが、1293年からアンティオキアの総主教はイグナティウスにちなんでイグナティウスと称するようになりました。アンティオキアの総主教座は今日に至るまで栄え続け、現在ではイグナティウス・ザッカー1世がこの系統の122番目の正統な総主教としてその地位に着いています。
総主教座は歴史の混乱期にあって518年にアンティオキアから移らざるを得なくなり、13世紀にトルコのマルディンにある聖ハナニヤ僧院に落ち着くまで、近隣の東諸国を転々としました。25万人のシリア正教徒が殺されることとなった第一次世界大戦及び戦後の悲惨な暴力の時代の後に、総主教座はシリアのホムスに1933年に移り、その後1957年にダマスカスに移りました。
シリア正教会は、多くの点で非常に独特な教会です。第一に、シリア正教会は、キリスト自身の文化とさほど変わらないセム族の文化を反映したキリスト教の形式を維持しています。第二に、シリア正教会は、キリストと十二使徒によって話されていたアラム語の一方言であるシリア語を典礼に用いています。第三に、その典礼は最も古来の形式を維持しており、世代から世代へと直接に受け継がれてきたものです。第四に、そして最も大切なこととして、シリア正教会の信徒は多民族で構成されており、キリストの身体の統一性を体現しています。例えばヨーロッパやアメリカのあなたの地域にあるシリア正教会を訪れてみれば、装飾や聖職者の祭服にオリエンタル世界とインドの文化の混合を見出すことができるでしょう。今日のシリア正教徒の多くは中東諸国やインドのケララ州、及び移民のコミュニティに住んでいます。
シリア正教会は1960年から世界教会協議会のメンバーであり、中東教会協議会の創立会員に名を連ねています。シリア正教会は、他の教会とのエキュメニカルな対話、神学に関する対話を行っています。そうした対話の結果、シリア正教会は、ローマ・カトリック教会との間で2つの共同声明を出し、また、東方正教会とも共同声明を出しました。
シリア語では、教会の正式名称は「idto suryoyto
treeysath shubho」です。英語では、以前は「Syrian Orthodox Church」と訳されていましたが、2000年3月28日から4月3日まで開催された主教会議で、英語圏では「Syriac
Orthodox Church」という訳語を採用することが決定しました。
[シリア正教の歴史]へ
(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Intro/index.html)
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