福音記者聖ルカが描いたと伝えられるイコン.(エルサレム聖マルコ教会)
シリア正教とは何か ―その波乱万丈の歴史と豊かな文化―
   この章はSyriac Orthodox Resources At a Glance を訳したものです。

 

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■シリア正教の歴史
 シリア及びメソポタミア地域では歴史的にアラム語の様々な方言が使われており、その中でも北メソポタミアのエデッサのアラム語方言であったシリア語が、アラム語形式の最も有力な書き言葉でした。私たちが「シリア正教徒」という呼称を用いる時には、母語がシリア語か、典礼にシリア語を採用しているキリスト教徒を指しています。

 シリア正教は、ローマ帝国のシリア州首都であったアンティオキアのみを中心とするわけではありませんでした。実際、シリア正教は、メソポタミアの極東にまでその範囲を辿ることができます。言い伝えによれば、キリスト教は十二使徒の時代にエデッサに伝えられました。この事実はエウセビオスの『教会史』を含め、様々な文書に残されています。エウセビオスは、エデッサの王であるアブガー・ウコモと、まさにイエスその人との手紙のやり取りを紹介しています。

「エデッサの王であるアブガー・ウコモは、エルサレムに現れた素晴らしい救世主であるイエス様に、ご挨拶申し上げます。私は、あなたとあなたの癒しについて聞きました。あなたがいかに薬や薬草なしで様々な癒しを達成しているのかを。私はあなたに関するこれらのことを全て聞き、あなたはこれらの癒しを行うために天国から降りてきた神その人か、神の子のいずれかに違いないと確信しました。それゆえ、私のところに急いでお越し頂き、私が患っている病気を癒してくださるようお願いするため、この手紙を書いております。」 イエスからアブガー王への返事は、その言い伝えによれば、 アナニヤという人物によって運ばれ、そして読み上げられました。

「私を見ないで信じるあなたは祝福されます。さて、私にあなたのところに来て欲しいというあなたの手紙についてですが、私はまず、私がこの世に送られた目的を全て果たさねばならず、それを完遂した後、私を送られた方の元へ引き上げられねばなりません。そして、私が引き上げられたら、あなたの病気を癒すために私の弟子の一人をあなたの元へ送りましょう。そしてあなたと、あなたと共にいる人々に命を与えましょう。」 この話は、いかにしてアダイという名の70人の弟子のうちの一人がアブガー王の元に送られ、彼の病気を癒したかと続いていきます。

 歴史文書では、2世紀の後半にはエデッサに教会が設立されていたとされています。恐らく、大部分のエデッサ市民は異教徒のままであったことでしょうが。エデッサの年代記では、201年に悲惨な洪水が都市のキリスト教会を破壊したとされています。しかしながら、それからほんの100年後には大部分の都市がキリスト教の傘下に納められるようになりました。アラム語のシリア形式の母体であるエデッサは、新しい信仰を公式に受け入れた最初の王国として、自らを誇りに思っています。

 シリア正教は、インドにも長い歴史を持っています。言い伝えによれば、インドのキリスト教は、52年にエデッサからマランカラ(ケララ) に着いた十二使徒の聖トマスによって確立されました。マランカラと近東の教会の間の親密な関係は、少なくともエデッサのジョセフという人がインドに旅行し、そこでキリスト教徒に出会った4世紀にまで遡ることができます。今日のマランカラ教会は、その最高の精神的指導者としてアンティオキアの総主教を頂くシリア正教会の中でも重要な存在となっています。マランカラ教会の最高位は、アンティオキアの総主教に聖別され、その指導を仰ぐべき地位にある「東方カソリコス(Catholicos)」です。

 シリア正教は、オリエント世界に急速に広がりました。2世紀には聖書は説教の典拠としてシリア語に翻訳されました。今日においても、シリア語版の聖書の古さは現代の学者に高く評価されています。アーサー・ブーバス博士によれば、「ギリシャ語によるオリジナル[の新約聖書]の最も古い翻訳を探すとすれば、私たちはシリア語版に遡らねばならない」(『シリア語による福音テキストの歴史研究』p.1)のです。シリア正教の教父たちは6種類以上の新約聖書の翻訳及び改訂を行い、旧約聖書については少なくとも2種類の翻訳を行っています。この領域における彼らの業績は、世界の教会史の中で突出しています。

 アンティオキアの教会は、教義論争が全教会を分裂させた5世紀まで、ビサンチン帝国の下で繁栄していました。451年のカルケドン公会議の後、一つの教会から二つの分派が発生しました。ビザンティンのギリシア教会及びローマのラテン教会はカルケドンを受け入れました。しかし、シリアとコプト(後のアルメニアも)の教会は、会議を拒絶したのです。前者はキリストが二つの性質、つまり人性と神性を持つとし、後者はキリストはその二つの性質からなる一つの具体的な性質を持つという教義を採用しました。もともとこの会議の草稿は、シリア教会及びコプト教会の立場に沿っていたということは注目に値します。最終稿は、しかしながら西洋の教会の教理に従ったものとなり、そして、シリア人の教会によって拒絶されました。

 この分裂は、以後数世紀に渡ってシリア教会に悲しい結果をもたらしました。皇帝がカルケドン派を支援したので、シリア教会は多くの迫害を受けることとなったのです。多くの主教が追放されました。その中で最も有名なのは、後に「シリアの王」という別称を贈られたセヴェルス総主教です。セヴェルス総主教は、追放されたまま538年に死去しました。544年までに、シリア教会は残された主教がわずか3人のみという暗黒の状況にありました。そのような時代にヤコブ・ブルドーノ(ヤコブ・バラデウス)が現れ、教会を刷新したのです。ヤコブは、ジャスティニアン皇帝の妻であるテオドラ皇后(シリア正教の資料によるとマブグ出身のシリア正教司祭の娘でもある)とコンスタンティノープルへ旅行しました。テオドラは、彼女の影響力を行使して544年にヤコブを主教に叙階させました。後に、ヤコブは教会を復活させるためにあらゆる地域を旅行しました。そして彼は、27人の主教と数百人もの司祭及び助祭を任命することとなったのです。そのため、シリア正教は、578年に彼が亡くなった7月30日に、毎年この聖人に敬意を表します。それから2〜3世紀が経った頃、敵対者たちはシリア正教に、聖ヤコブにちなんで「ヤコブ派」というレッテルを貼りました。シリア正教は、この軽視的で聖ヤコブがシリア正教の創始者であると誤解させるレッテルを拒絶します。

 キリスト教世界での貢献以外にも、シリア人の教父たちは世界文明に貢献しています。既に4世紀頃には、シリアとメソポタミア全域において、研究施設と学校がそれぞれの僧院に設立されていました。修道僧と学者はギリシアの学問を休みなく研究し、それらに注釈を加えたり新たな理論を加えたりしました。7世紀の終わりに近東を征服したアラブ人がギリシアの知識を吸収したいと望んだとき、彼らがシリア人の学者及び司祭に注目したのは自然なことでした。アラブのカリフは、ギリシア人の科学をアラビア語に翻訳するよう、シリアの学者に依頼しました。彼の映画『忘れられたクリスチャン』で、クリストファー・ウェナーは、ダイル・アッ=ザアファラーン修道院の学校についての描写の中で、シリア人の学者や司祭たちの強い影響力について次のように述べています。「アラブ人がギリシアの学問を学んだのはここの修道僧たちを通じてであり、そしてご存知のようにアラブ人がそれをヨーロッパに伝えたのです。シリアの修道僧たちがいなかったら、私たちヨーロッパ人はルネッサンスを生み出すことはできなかったでしょう。」

 シリア正教会は、その後何世紀にも渡る多くの帝国の支配下で生き残りました。アラブ人、モンゴル人、十字軍、 マムルーク朝、オスマン朝、そしてトルコ人の下で、シリア正教会は生き残ったのです。脅迫も迫害も、信徒を征服することはできませんでした。しかし、教会の規模はかつての何分の一にも縮小し、20世紀初頭には、シリア正教は主としてトゥール・アブディンのような山地の田舎と、オスマン朝帝国内の様々な町にその範囲を限定されることとなりました。しかし、最悪の迫害はその後に起きました。

 第一次世界大戦中、シリア正教徒はオスマン王朝のトルコ人と近隣のクルド人によって大虐殺され、民族浄化されたのです。シリア語では1915年は「sayfo」、つまり「剣[の年]」と呼ばれています。村は空っぽとなり、修道院や教会は破壊され、100万人のうち4分の1が殺されたといいます。その結果、シリア人がトルコ語で「sefer berlik」、すなわち「集団脱出」と呼ぶ、新たに建国されたシリア、レバノン、イラク、パレスチナへの移住が行われました。一部の人々は中東地域から離れ、アメリカで新しいコミュニティを形成しました。そして続いて起きたさらなる移住の結果、今日のシリア正教はその信徒を中東とインドのみではなく、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアにも持つこととなったのです。

[信仰と教義]

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Intro/index.html

   
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