聖ハナニヤ修道院
アンティオキアのシリア正教会―歴史と現在、その概観を一望する―
 シリア正教総主教イグナチィウス・ザッカ1世自筆によるシリア正教概観文書の翻訳です。

 

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 シリア正教会はアンティオキアの教会であり、その創設はキリスト教の発祥時にまで遡ります。それはアンティオキアがローマ帝国の3つの首都の一つ、シリア州の首都であった頃でした。ユダヤ人による迫害のため、エルサレムを逃げてきたキリスト自身の弟子たちによって、その福音はアンティオキアにおいて初めて説かれたのです。34年の聖ステファノ助祭の殉教後、70人弟子の一人だったバルナバと十二使徒の一人であった聖パウロがアンティオキアを訪れました。そこでは十二使徒のペテロが福音を説き、既に33年に彼の使徒座を設立していました。そこで二人は、ペテロに従ってアンティオキアに1年滞在し、福音を説いたのです。

 幾人かの歴史家によれば、アンティオキアという都市そのものの改宗は使徒ペテロによって2段階で行われました。第一に、キリスト教会がそこから発生することとなったユダヤ人たちの改宗。第二に、アラム人やギリシア人、アラビア人といった異教徒たちの改宗です。これは、コルネリウス自身の改宗と彼が教会を受け入れた後に生じました。

 新約聖書に記録された出来事を読むと、聖ペテロの二度目のアンティオキア訪問では、彼らが改宗した後でさえ、彼が異教徒たちと交わることを避けていたことが分かります。というのもエルサレムのキリスト教徒たちが、ペテロがコルネリウスを受け入れたことについて異議を唱えていたからです。しかしながら、聖パウロは公にペテロに反対しました。さらに、ユダヤ人改宗者たちの中には、キリスト教徒になる前にまずユダヤ人にならなければならないとし、異教徒の改宗者に割礼を強いるものたちすらいました。この問題を解決するために、51年にエルサレムで会議が開催されました。そして次のメッセージがパウロとバルナバの名によってアンティオキアに送られました。派遣されたのはバルナバと呼ばれるユダと、シラスです。「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなた方に重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に捧げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。(使徒言行録15:28-29)」この出来事は、キリスト教の初期におけるアンティオキアのシリア教会の重要性を示唆しています。

 使徒言行録には、アンティオキアの教会のメンバーたちの熱心な信仰心と、仲間のキリスト教徒たちへの献身が記されています。彼らは施し物を集め、バルナバとパウロを通じてエルサレムの貧しい人々に送り届けました。同じく使徒言行録は、イエス・キリストの弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれたのはアンティオキアであったと証言しています。

 ペテロとパウロが宣教のためにアンティオキアを離れなければならなくなったとき、彼らは信者たちの世話をさせるために二人の主教を任命しました。異教徒出身のキリスト教徒のためにエフォディウスを、ユダヤ教徒出身のキリスト教徒のためにイグナティウスを。68年に、イグナティウスがアンティオキアの唯一の主教となりました。アンティオキア教会を「普遍的教会[Universal Church]」と呼んだのは彼でした。なぜならそこは、異教徒出身のキリスト教徒と割礼を受けていたキリスト教徒から構成されていたからです。従って、アンティオキアのイグナティウスが、キリスト教会に「普遍的」という形容詞を初めて用いたのです。

[アンティオキアのシリア語]

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Pub/PZakka1/SOCAtAGlance.html

   
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