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シリア正教徒とは? |
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シリア正教徒とは、最も古い使徒教会の一つであるアンティオキアのシリア正教会の信者のことです。
シリア正教会は、信徒が様々な国(主として中東とインド)にいる世界的な教会です。 初めは現在のシリア、イラク、トルコ、レバノン、ヨルダン、そしてパレスチナまで広がっていた古代シリアの領内で発展し(それゆえにシリア正教会という名がついています)、インドに至るまでの東方全体へと広がっていきました。
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シリア正教の中心地はどこですか? |
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総主教座は518年に激動の歴史の中でアンティオキアから近東の様々な場所に移動し、13世紀にトルコのマルディンにあるダイル・アッ=ザアファラーン修道院に落ち着きました。
第一次世界大戦中及び戦後に100万人いたシリア正教徒の4分の1が殺されましたが、その筆舌に尽くし難い暴力の時代の後、1933年にシリアのホムスに移り、そして1957年にダマスカスに移って現在に至っています。
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シリア正教会が使用する言語は? |
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教会の公用語は、主イエス・キリストと彼の弟子たちが使用していたアラム語の方言であるシリア語です。
シリア正教の全ての礼拝式は、シリア語によるものです。 とはいえシリア正教会は、信者がシリア語と共に現地の言語を使用することを認めています。
多くの典礼文は、アラビア語、マラヤラム語、英語、そしてトルコ語に翻訳されてきました。
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シリア正教の信仰は、他のキリスト教宗派の信仰とどのように違うのですか? |
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451年のカルケドン公会議によって、キリスト教世界は二つの派に分裂してしまいました。
カトリック(ローマ)とギリシア教会(ビザンティン)は会議の決定を受け入れましたが、シリア教会(アンティオキア)とコプト教会(アレキサンドリア)
は拒絶したのです。 前者のグループは、キリストが2つの性質、つまり人性と神性の二つの性質から成っているという教義を採用し、そして後者は、キリストがその二つの性質からなる一つの性質を備えて受肉したという教義を採用したのです。
このカルケドン公会議の草稿がシリア教会とコプト教会の観点で書かれていたことは注目に値します。 最終稿は、しかしながら西洋の教会の教義に従ったものでした。
シリア正教会と他の教会との違いは、この点のみにあります。 一つの単語がキリスト教世界を何世紀にも渡って引き裂き、その分裂は現在にまで引き継がれてしまっているのです。(訳者注:近年のエキュメニカルな対話により、この不幸な分裂は解消されつつあります。ローマ・カトリック教会とは上記の教義上の相違は実質的にないに等しいという合意がなされ、互いの信者がいずれの聖餐式に与っても良いとされるようになりました。他の教会とも、同様の合意がなされつつあります。詳しくはこちら。)
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シリア正教会は、単性論派の教会なのですか? |
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いいえ。 単性論の教義は、エウテュケスによって提唱された単一性キリスト教教義の極端なバージョンです。
それは、キリストが一つのみの性質を持っているということ、そして、神の性質が人間性を包括したと主張しています。 カルケドンでの敵対者たちは、シリア正教会を単性論であるとして非難しました。
しかしながら、シリア正教会はこの単性論の教義を常に拒絶し続けてきています。 シリア正教に対して未だにこの用語(monophysite)を使用する学者が存在することは遺憾なことです。
オックスフォード大学のセバスチャン・ブロック教授は、正しくも、シリア正教会の立場をより正確に描写している一性論(合性論
miaphysite)という用語を使用することを提案しています。
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シリア正教会は、ヤコブ派教会とも呼ばれる教会なのですか? |
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いいえ。 これは、シリア正教会は聖ヤコブ・バラデウスによって創設された教会なのだと連想させてシリア正教会をわざと軽視しようと試みる敵対者たちが用いる蔑称なのです。
6世紀に、シリア正教は自分の信仰を押し付けようとするビザンティン帝国の元で迫害に耐えていました。 そのような時代に、ヤコブ・バラデウスが登場したのです。
彼は東方世界の至るところを旅し、多くの司祭及び助祭を任命し、シリア正教会を消滅の縁から復活させました。 シリア正教会では、ヤコブは偉大な聖人ですが、しかし創立者ではないのです。
ゆえにシリア正教会は、ヤコブ派という呼称を拒否するのです。 ただ、マランカラ(インド)のシリア正教徒が無邪気に自らをヤコブ派と呼ぶことには言及しておく必要があるでしょう。
何世紀もの間、マランカラのキリスト教徒はナザラーニと呼ばれていました。 ヤコブ派という呼称は、英国国教会教徒によって19世紀にマランカラに導入されました。
英国国教会教徒の影響によって引き起こされた分裂の後、母教会に留まったキリスト教徒はその用語に否定的な含意があることを知らずに採用したのです。
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シリア正教会は、その起源をアンティオキアの教会に遡る唯一の教会なのですか? |
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いいえ。 他のアンティオキア総主教たちもいます。 451年のカルケドン公会議の後、総主教座は二つのグループの支持者によって断続的に(交替して)占められることとなりました。
カルケドン公会議を拒否するグループと受け入れるグループです。 6世紀までに、総主教のこの二つの異なる継承系が現れました。
シリア正教の継承系は、カルケドン公会議を受け入れたギリシア正教(中東ではルーム正教と呼ばれます)を拒否しました。 7世紀頃、シリア正教会内部での絶え間ない論争の後、レバノンの聖マロンの支持者達がマロン派教会を創立し、この教会の総主教もアンティオキア総主教の称号を名乗っています。
この教会は、後に帰一ローマ・カトリック教会となりました。 18世紀に、ルーム正教から分裂したグループがローマ・カトリック教会に合流し、ギリシア・カトリック教会(ルーム・カトリック)を形成しました
この教会の総主教もまた、アンティオキア総主教を名乗っています。 同じ世紀の第2四半期に、シリア正教会から分裂したグループがローマと提携関係にあるシリア・カトリック教会を設立しました。
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アンティオキアのシリア正教会とインドのシリア正教会との関係は? |
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インドのケララ州のマランカラ教会は、シリア正教会の不可欠なメンバーです。 十二使徒のトマスは、インドで福音を説くためにシリアのキリスト教の母体であるエデッサを出発し、インドに行ったと信じられています。
彼はインドに52年に到着し、72年にチェンナイ(以前のマドラス)にあるミラポーアで殉教したと信じられています。 ポルトガルが16世紀にラテンの伝統をインドに持ち込むまで、インドのキリスト教はその初期からシリア正教のみに基づくものでした。
マランカラのシリア正教会の精神的指導者は、アンティオキアのシリア正教会総主教です。 ただし、特に日々の物事においては、マランカラ教会はかなりの自律性を有しています。
マランカラでの首位は東方カソリコスですが、現在は空席となっています。 |
(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/FAQ/index.html)
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