聖ハナニヤ修道院
アンティオキアのシリア正教会―歴史と現在、その概観を一望する―
 シリア正教総主教イグナチィウス・ザッカ1世自筆によるシリア正教概観文書の翻訳です。

 

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アンティオキアのシリア語
  シリア語はアラム語そのものであり、アラム人とはシリア人のことを指しています。これらを別々のものとする解釈は間違っています。古来から、シリア人という名称はアラム人という名称と共に使用されており、シリア人とはアラム語を話す人々を指していました。よって、それは言語学上の名称なのです。キリスト教が普及するに従って、シリア人という名称がアラム人という名称よりも好んで使われるようになりました。キリスト教の最初の説教師である使徒たちは、シリア語を話す人々でした。キリスト教の初期の数世紀の間に、使徒たちがシリア語を話していたことが分かると、彼らの教えを受け入れてキリスト教徒になっていたアラム人は自分たちのアイデンティティをアラム人からシリア人へと変えました。彼らはシリア人と呼ばれることに誇りを感じていたことでしょう。その結果、シリア人という名称はキリスト教徒を含意するようになり、アラム人という名称は異教徒を含意するようになりました。これは、『ペシッタ』として知られている聖書のシリア語版から明らかです。そこでは、アラム人という名称はキリスト教徒から異教徒を区別するために用いられているのです。こうして、アラムの地ではキリスト教徒を呼ぶためにアラム人という用語を使うことは廃れ、シリア人という用語が使用されるようになりました。シリア人という言葉は、キリスト教徒という言葉と同義になったのです。

 従って、「シリア教会」とは、キリスト教会そのものを意味します。シリア語も、アラム語として知られています。元来、それは紀元前15世紀からアラム−ダマスカス、アラム−ナハリン(メソポタミア)地域に定住したアラム人の言語でした。

 アラム語は古代世界の至る所に広がり、オリエンタル世界の多くの言語のアルファベットはアラム語に由来するようになりました。ナボ・ブラッサール王の治世にアラム語はバビロニア宮廷の公用語となり、そしてダリウス大王の治世にはペルシア帝国の様々な地域間の公用語となりました。それは東方世界において、長い間「国際公用語」であったのです。紀元前5世紀のバビロニアによる征服以来、ユダヤ人はアラム語を学び、すでに忘れ去されたヘブライ語に代えてアラム語を自分たちの共通言語としました。イエス・キリストと使徒たちも同じく、シリア語を話していました。

 その後もシリア語は東方世界の多くの地域で使用され続けましたが、7世紀の終わりにはアラビア語が多く用いられるようになり、シリア語は徐々に廃れていきました。その方言のいくつかは、トルコのトゥール・アブディンの村々や北イラクの村々、そしてシリアのダマスカスの近郊にあるマアルーア村で今でも話されています。シリア語の影響範囲は、今日でも、中東の様々な都市や村の名称や彼らが話している方言にはっきりと表れています。

 キリスト教の初期、シリア語は、アンティオキアとその郊外やシリア州全体に居住していた住民の母語でした。シリア語はアンティオキアに移住してきたユダヤ人移民の言語でもありました。一方でギリシア語は、セレウコス朝によってもたらされたギリシア人共同体の入植者たちの言語でした。

 歴史家のフィリップ・ヒッティ博士は、英語名の「シリア人(Syrian)」はシリア語(アラム語)を話す全ての人々を指し、中でもイラクやイランに居住している人々を指すと述べています。宗教的な意味では、それは、南インドに住む人々も含め、古来からのシリア教会の支持者を指します。ローマ人にとっては、「シリア人(Syrus)」とはシリア語を話すあらゆる人々を意味しました。 アンティオキアの教会は、宗教典礼においてシリア語を用いてきました。アンティオキア教会は、その初めての聖餐を、主の兄弟でエルサレムの大主教であった聖ヤコブによって書かれたシリア語の典礼を用いて行いました。この同じ典礼が、今日の世界中のシリア正教会で用いられています。今日、典礼は、地域言語とシリア語で行われています。多くの教父たちは、宗教書や科学書をシリア語で執筆しました。

[アンティオキア教会の地位]

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Pub/PZakka1/SOCAtAGlance.html

   
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