聖ハナニヤ修道院
アンティオキアのシリア正教会―歴史と現在、その概観を一望する―
 シリア正教総主教イグナチィウス・ザッカ1世自筆によるシリア正教概観文書の翻訳です。

 

トップページへ

 

 

 ■東方のユーフラテス地域
  ローマ帝国の東の境界を越えた地域にある諸国は「東方」として知られていました。その東方から、イエス・キリストの時代に、ペルシア帝国の支配地域にいた賢人たちがベツレヘムにやって来て、主に贈り物をしたのです。東方にはユダヤ人コミュニティがあったので、彼らの中にはペンテコステの日にエルサレムにやって来ていた人々がいたのかもしれません。使徒言行録はペルシア人、エラム人、そしてメソポタミアの住人たちに言及しています。彼らの中にはキリストを信じ、彼らの国に福音を伝えた人々がいたことに間違いはないでしょう。

  シリア正教の記録には、70人の説教者の一人であったアッダイが、彼の兄弟である使徒トマスにアブガライト王国の首都であったエデッサに派遣され、その王であったアブガー5世のハンセン病を癒し、その都市の住民全てと共に彼を改宗させたという話が残っています。アッダイはチグリス川の東谷、アルゼンの南にあったアメッド(ディアルベキール)で説教し、またバゼブディで説教しました。その後アッダイはヒディアブ(アービル)に到着し、彼の友人のマリと共にそこに居を構え、福音を伝えました。シリアの歴史家である偉大なマイケル、エブロヨとサリビは、使徒トマスがインドに向かう途中でこれらの地域を通過し、それぞれの住民に説教をしたと記しています。このようにして、キリスト教は1世紀から東方全体に広がり、教会が建設され、主教職が確立されました。

 3世紀の間に、アンティオキアの使徒座のキリスト教管轄権において、マダエンをその中心地として一連の主教職が徐々に組織化され、一般的な指導体制が確立されました。マダエンの主教は東方主教あるいは東方カソリコスと呼ばれました。

 東方カソリコスは、アンティオキアの総主教との共同の中で、彼の地域の諸教会に対する全般的な権威を持っていました。ローマ帝国とペルシア帝国は互いに敵意を持っていたため、ローマ帝国内にあったアンティオキアの総主教座とペルシア帝国の支配地域にあった東方との関係は、この政治的状況に妨げられました。

  431年のエフェソス公会議は、コンスタンティノープルの総主教、ネストリウスを破門しました。シリア地域から参加した主教たちの中には、エデッサ学派の教師や生徒の大半と共に、ネストリウスの側に付いた者たちもいました。そのため、ネストリウスの教えは、ティクリットとアルメニアを除いた東方地域に広がっていったのです。そしてシリア人たちも、宗教的・教義的に二つのグループに分離したのです。この分離はシリア語にさえも影響を及ぼし、発音と書体において西洋的、東洋的と呼ばれる二つのスタイルが区別されるようになりました。西洋のスタイルはダマスカス[シリア]地域で、東洋のスタイルはメソポタミア・イラク・アゼルバイジャンで使用されていました。東方のグループはアンティオキア総主教座との関係を絶ちました。その中でイラクの正教徒たちだけはアンティオキアの使徒座に対する忠誠心を保ち続け、その結果として被らざるを得なかった甚大な苦難を耐え忍ぶこととなりました。480年、ヌサイビンのネストリウス派主教であったバルソウマが、ペルシア帝国のファイロウズ王に対し、東方正教会の信徒がビザンティン王国のスパイをしていると中傷しました。その結果、ファイロウズは多くの人々を虐殺し、無実の血が流されました。バルソウマの死後、アルメニアのカソリコスであったクリストフォラスが東方を訪れ、ガルマイという名の僧を聖マタイ修道院の主教として叙任し、彼に東方カソリコスとして主教を叙任する権限を与えました。同じくクリストフォラスは、アホデメという僧をベルバイの主教に叙任しました。559年に、ヤコブ・ブルドーノが同じ東方の教会を訪れ、アホデメを東方の第一主教に叙任し、ネストリウス派がこの地域の座を奪って以後、彼が初の第一主教となりました。

 628年、ペルシア帝国とローマ帝国が和解に達しました。総主教アタナアシウス1世(595-631)は彼の秘書をしていた僧、ヨウハンナを東方に派遣しました。彼は聖マタイ修道院のクリストフォラス主教に会い、アンティオキア総主教座と東方教会の関係の復興について話し合いました。クリストフォラス主教はヨウハンナと4名の地域主教を含めた宗教会議を召集しました。彼らはマロタ、イタラハ、アハの3人の僧を選出し、総主教に対して彼らに主教職を叙任するよう要請しました。総主教は彼らの要請を受け入れ、東方教会の古い慣習、緊急の場合はカソリコスが不在でも新しい主教の叙任を認めるという慣習を認めました。

 東方の主教たちは、総主教の使者の面前で、選ばれた修道僧たちを主教に叙任しました。そして総主教は、3人の新しい主教のうちマルタをティクリットの主教に任命し、自分の代理として彼に東方全体をまとめ上げる権威を与えました。この出来事は、東方の教会が自律的であり、総主教に任命されたカソリコスはその地域の主教たちに対する権威を持つということを示唆しています。また、シリア正教会の歴史では、総主教はカソリコスの協力を得て、教会の教父たちによってその地位に就くという伝統もありました。この伝統を踏みにじろうとする試みが何度か生じたこともありますが。

 ティクリットのマロタ(649年死去)はカソリコスと呼ばれる最初の人物でした。カソリコスの継承系が生じたのは彼からでした。東方カソリコスグレゴリウス・エブロヨ(1264-1286在位)の時代には、東方の主教の数はアンティオキア主教座の教区よりも多くなっていました。エブロヨは歴代の東方カソリコスの中でも非常に有名で学が高かったと考えられています。

 東方カソリコス庁の最初の所在地はティクリットであり、1089年までそこにありました。続いて、それはモースルへと移り、それからティクリットに戻り、1152年にモースルの近くの聖マタイ修道院に移りました。その後一時的にモースル近くのバルテッレへ移り、そしてモースルに戻ってきました。

 過去においては、カソリコスは就任後も自分の名前をそのまま使用するのが慣習でした。しかし、16 世紀以降、バセリオスという名がカソリコス自身の名前に付け加えられるようになりました。1860年、モースルのバセリオス・バーナム4世の死後、主教会議によってカソリコス職は廃止されました。

■カソリコス職の回復 
  1964年5月21日、南インドのコタヤムで開催された主教会議の決議によって、カソリコス職が回復されました。会議の議長は先のアンティオキア及び全東方総主教のイグナティウス・ヤコブ3世が務め、インド内の全ての主教と、総主教のこの使徒的インド訪問に同行した中東の3主教が参加しました。この本の著者は、その3主教のうちの一人でした。カソリコスの拠点はインドにあるべきであり、カソリコスの管轄権はインドとインドの東のみに限られると決定されました。

  1964年以来、カソリコスはインドのシリア正教聖主教会議にて選出され、世界全体のシリア正教の頂点に立つアンティオキア及び全東方総主教によって叙任されています。カソリコスは、総主教の選出及び叙任のために世界主教会議が開催される時にインドのシリア正教を代表します。現在のカソリコスはバセリオス・パウローズ2世です。

[アンティオキア教会の分裂]

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Pub/PZakka1/SOCAtAGlance.html

   
トップページへ  Meriam & Joseph @2003. リンクは大歓迎、フリーです。転載の場合はご連絡下さい。