聖ハナニヤ修道院
アンティオキアのシリア正教会―歴史と現在、その概観を一望する―
 シリア正教総主教イグナチィウス・ザッカ1世自筆によるシリア正教概観文書の翻訳です。

 

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■アンティオキア教会の分裂 

  アンティオキア教会(シリア教会)は、その構成員をいくつかの派に分裂させてしまうという苦痛に満ちた出来事を何度か耐えてきました。これらの事件は、多くの面で教会を弱体化させてしまいました。 キリストには二つの分離したペルソナと性質があると主張するコンスタンティノープル総主教ネストリウスの教えを、エフェソス公会議は431年に拒絶しました。アンティオキアの総主教ユハンナは、彼を支持しました。彼の後を継いだ甥のドムノスも、残念ながらこの異説を受け入れました。彼は449年に開催された第二回エフェソス公会議で退位させられ、マキシマスがその地位に就きました。シリア、パレスチナ、そしてキプロスといったペルシア帝国内に居住していたシリア人には、ネストリウスの教義を受け入れた人々もいました。彼らはアンティオキアの総主教座から分離した教会を498年に形成しました。彼らは、カソリコスと自称する指導者を彼らの中から選出しました。彼らの初代カソリコスはバダイで、イラクのマデンに近いセルシアに本拠地を構えました。その後762年にバグダッドに移転しました。15世紀初頭にはイラクのアル・コッシュに、1561年にはイラクのエルミアに移転しました。

 451年のカルケドン公会議の結果、4つの偉大な総主教座は二つのグループに分裂し、教会中に広まった混乱がその教義を弱めてしまいました。違法な内政干渉が主教職において生じ、どさくさに紛れて利益を得ようと考えるものも出てきました。ローマの主教座は、ネストリウス派であったキプロスの主教、ティモテオスを取り込むことに成功しました。1445年、彼は彼の教会の一団と共にカトリック教会に合流したのです。このグループにはネストリウスの考えに同調していたシリア教会のメンバーも含まれていたことは記憶されるべきです。ローマ教皇エウゲニウス4世は、こう宣言しました。「ネストリウス派を離れローマ教会に参加したこれらのシリア人を異端扱いすることを禁じる。彼らはカルデアンという名で呼ばれなければならない。」 5年後の1450年、彼らは自分たちの教会に戻りました。しかし、このグループのシモン総主教が召集した主教会議が、シモン総主教の種族以外から総主教が出てはならないという趣旨の決議を通したとき、すぐにその教会内で論争が生じました。この決議がシモンの主教会議で採決された時、シモンに反対する人々の対抗主教会議がモースルで開催されました。1553年、多くの人々がシモンを離れ、ローマの総主教座に合流しました。そこで、教皇ユリウス3世は彼らのためにユハンナ・スラクァを総主教に叙任しました。ユハンナ・スラクァ総主教が1555年に殺され、ローマの総主教座との関係が切断されたので、この分裂は長く続きませんでした。

  1827年まで、カルデアンには二人の総主教がいました。一人はアメド総主教と呼ばれ、もう一人はバビロン総主教と呼ばれていました。同年、アメドとバビロンの分離はローマ教皇レオ12世によって廃止されました。1830年以降、ユハンナ・ヘルメツ総主教の時代から、バビロン総主教と呼ばれる一人の総主教だけが存在しました。ユハンナ・ヘルメツは、バビロン統一総主教の初代総主教でした。19世紀中頃にヨセフ・オド総主教がバビロン総主教に就任し、彼は前任者たちとは異なり、オリエンタル教会とその古い伝統を結び付けました。

  アンティオキアの総主教座の話に戻ると、マキシモス(449-512)の時代以降、カルケドン公会議の定義を支持する総主教と、それに反対する総主教とで、その座が奪い合われていました。この危機の時代に、有名な総主教ペテロ2世がアンティオキアの総主教座に就いています。

 512年には、信仰が不安定という理由で免職させられたフィリビアノスの後を継いで、聖セヴェルスがアンティオキア総主教に就任しました。聖セヴェルスは518年まで総主教座を平和のうちに統治しましたが、この年、彼は追放されました。正教の皇帝アナスタスが死ぬと、カルケドン公会議の支持派であったユスティノス1世がその後を継ぎました。

 彼は、538年にエジプトに追放されていたまま死去した聖セヴェルスを含め、ほとんど全ての主教たちを追放しました。聖セルジスは、聖セヴェルスの後を継いでアンティオキアの総主教座に就きました。これら全ての大嵐の中、アンティオキアの総主教座は今日までその総主教の継承を維持するために、懸命に苦闘してきました。

 カルケドン公会議の支持者たちはセベリオスを追放し、自分たちの中から「アンティオキア総主教」の肩書きを持つ総主教を任命する機会を掴みました。この時(518年)から、ビザンティン総主教の系譜が始まりました。この系譜の総主教の中で最も有名なのはアメッドのエフライムでした。ビザンティン総主教のほとんどはギリシア入植民のシリア人やその他の人種の人々でした。これらの総主教たちとその支持者たちは「メルカイト」、すなわち「王の追随者」と呼ばれました。彼らは王によって奨励されたカルケドン公会議の教義に従ったからです。彼らは10世紀にギリシア式の典礼を採用するまで、シリア式の典礼を行っていました。しかし彼らはギリシア語を知らなかったので、ギリシア式典礼のシリア語訳を使用していました。後の世紀に彼らはギリシア語を学び、ギリシア語とアラビア語でギリシア式典礼を行うようになりました。彼らはダマスカス近郊のサイダナヤ村に所在していた聖マリア修道院(ギリシア人が後に占領したシリア修道院)に保存されていたシリア語写本を集め、燃やしてしまいました。

 7世紀初頭、イエス・キリストの二つの意思という新しい教義が登場し、アンティオキア総主教の管轄内で、カルケドン公会議の支持者たち内部での論争が生じました。この論争によって、レバノンのマロナイト僧たちが分離し、別の総主教が立てられることとなりました。彼らは12世紀にローマ・カトリックに合流し、彼らの総主教座を「アンティオキア総主教座」と呼び始めました。

 アンティオキアのオリジナルの総主教座から分離してできた新しいアンティオキア総主教座は、他にもありました。17世紀初頭、何人かのカプチン会修道僧の影響によって、またフランス総領事の支援もあり、シリアのアレッポのグループはアンティオキアの聖なる総主教座を離れていきました。彼らは1657年にマロナイト主教にアプローチをかけ、一人のアルメニア人司祭を、マルディンのアンドゥラオス・アキジャンの名によって、彼らが総主教と呼ぶ主教に叙任してもらいました。シリア・カトリック総主教は彼に始まりました。同じく彼らは、彼らの総主教を「アンティオキア総主教」と呼びました。

 18世紀初頭、ギリシア正教会内部で分裂が生じ、その結果彼らの総主教を見捨ててローマ・カトリックに従う者も出ました。彼らは自分たちのために別の総主教座を設立し、それを「アンティオキア総主教座」と呼びました。彼らはギリシア・カトリックとして知られています。

  18世紀最後の四半期に、イラクのシリア正教のあるグループは、フランス総領事の黙認の下でローマ・カトリックに合流するよう、強制されました。この総領事はオスマン王朝の支配者に、シリア正教の人々に重税を課すよう、吹き込んだ人物でした。この総領事は既にイラクに拠点を広げていたドミニコ会の宣教師たちに、重税を軽くするためにフランスの保護を求めるようにお人好しのシリア正教徒たちを説き伏せることを促しました。そこでシリア正教徒たちがフランス領事館に相談しに行ったところ、ローマ教皇に従わない限り何の援助もしないと言われたのです。イラクにカトリックが広まったのは、このようなやり方によってでした。この言葉に乗った最初のグループはカラコウシュの住民たちであり、1761年のことでした。19世紀の中頃には、バルテレとモースルのグループが先例に従いました。

■聖ヤコブ・ブルドーノ
  ビザンティン帝国によるシリア正教会の指導者たちに対する迫害の結果、多くの聖なる教父たちが殉教し、追放させられ、厳しく迫害され、そして四散していきました。544年の一時期、こうしたあらゆる艱難辛苦と混沌の結果として、シリア正教の主教は3人だけとなってしまいました。

 この最悪の状況で、神は、教会を守るためにヤコブ・ブルドーノという名の疲れ知らずの人物を与えて下さりました。彼はコンスタンティノープルに赴き、テオドラ皇后に手厚く迎え入れられました。彼女はジャスティニアン皇帝の妻であり、マンベジのシリア人司祭の娘でした。彼女は追放された主教たちのために働き、苦難にある彼らを支援しました。彼女は自分の影響力を行使し、544年、その時コンスタンティノープルに亡命していたアレキサンドリアの総主教聖テオドシウスによって、聖ヤコブがカソリコスに叙任されました。聖テオドシウスは、この叙任式を、同じく投獄の下にあった3名の主教を伴って行いました。叙任の後で、聖ヤコブは、教会の立て直しのために広い地域を旅しました。彼は、27人の主教と数百人もの司祭及び助祭を叙任しました。578年7月30日に亡くなるまで、聖ヤコブは次々と降りかかる災難を生き抜けるよう、シリア正教会を強化したのです。シリア正教会は彼に敬意と感謝を表し、毎年7月30日に彼の記念祭を行います。

 このようにして、シリア正教会はビザンティン帝国による迫害の強烈な打撃に耐え、そして三回の全地域公会議で確認された使徒信条を維持し続けました。アンティオキアの総主教座は、アレキサンドリアの総主教座との強い結びつきを保持しており、またこの二つの総主教座はアルメニア正教会とエチオピア教会と、同じ信仰と教義を共有していました。

  8世紀、ビザンティン帝国は、第7回全地公会議でシリア正教のことを聖ヤコブ・ブルドーノにちなんで「ヤコブ派教会」と呼びました。彼らの意図は、高貴なシリア正教会の面目を失わせて、その地位を下げることにありました。聖ヤコブは実に有名で、偉大な教父のうちの一人ですが、彼はシリア正教の創設者ではありません。シリア正教会は彼によって設立されたのではなく、彼はシリア正教の使徒信条に何ら新しい教義を持ち込んだわけでもありませんでしたので、私たちは「ヤコブ派」という呼び名を拒否します。シリア正教は、また、「単性論派」という呼ばれ方も拒否します。これはエウテュケスの説であり、その意味するところは、イエス・キリストの人性は神性と混じり合って混合物となり、その性質は融合しているというものです。シリア正教はエウテュケスと彼の教えを拒絶しました。シリア正教は、イエス・キリストは完全に人間であり同時に完全な神であり、何らの混合も混成も融合もなく、二種類の性質からなる一つの性質を持つ、と信じていたアレキサンドリアの聖キリルの説を支持しています。

 

[シリア正教会の現在]

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Pub/PZakka1/SOCAtAGlance.html

   
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