■アンティオキア教会の地位
アンティオキア教会はエルサレム教会の次に最も古い教会であると、全てのキリスト教徒に広く知られています。70年にローマ皇帝ティトゥスによるエルサレムの破壊の後、エルサレムのキリスト教徒は四散し、そのうちの多くはアンティオキアに向かいました。使徒たちが当時知られていた地域に赴き、福音を広め、教会や修道院や学校を設立したのは、アンティオキアからだったのです。これらの修道院や学校は多くの著名な学者を生み出し、彼らは宗教上・科学上の業績によって世界を啓蒙しました。アンティオキアのシリア教会は旧約・新約両方の聖書研究において偉大で歴史に残る貢献をしました。『ペシッタ』として知られるようになった聖書のシリア語版は、彼らによる翻訳だったのです。同じく彼らは、聖書をアラビア語、ペルシア語、マラヤラム語(南インドの言語)に翻訳しました。彼らは翻訳のみではなく、聖典の注釈や解釈も行っています。彼らは、今日の学者にとってかけがえのない豊かな遺産を残してくれました。アンティオキア教会は、福音を世界の多くの国(アラビア、アルメニア、インド、エチオピア等)に広める上で大きな役割を果たしました。その過程において、アンティオキア教会は、信仰を守るために何千人もの殉教者を出すこととなりました。
■使徒ペテロによるアンティオキアの主教座の確立
オリゲネス(256年)、カイサリアのエウセビオス(340年)、金口イオアン(407年)、ヒエロニムス(420年)、アンティオキアの聖セヴェルス(538年)のような信頼できる歴史家たちは、皆、アンティオキアにおける聖ペテロの努力について記しています。そのアンティオキアで、前述した通り、彼は使徒座を設立したのです。彼は最初の総主教であり、現在の総主教の系図は彼にまで遡ります。カイサリアのエウセビオスは、「イエス・キリストの昇天の4年後、聖ペテロは、神の言葉に従い、偉大な首都であったアンティオキアにおいて、最初の主教になった」と書いています。同じく彼は、彼の『教会史』において、「イグナティウスが有名になり、そして、聖ペテロの後継者としてアンティオキアの主教に選出された」と書いています。ヒエロニムスは、彼が作成した祭日カレンダーで、2月22日を聖ペテロがアンティオキアに主教座を設立した日と定めています。カトリック教会は、今でもこの同じ日にこのお祝いを行います。従って、私たちは、聖ペテロがアンティオキアの使徒座の最初の主教であったと推測できます。聖イグナティウスを初め、彼には多くの有名な後継者がおり、この継承譜は、現在の総主教に至るまで維持されてきました。現在の総主教は、正統な総主教の継承譜において、122番目の総主教です。
■アンティオキアの総主教座
アンティオキアの総主教座は、518年までアンティオキアにありました。教会が巻き込まれてきた多くの歴史的な変動とそれがもたらした辛苦のために、何世紀もの間、シリア教会は総主教座をメソポタミアの様々な修道院に移しました。総主教座は、13世紀にトルコのマルディン近郊にあるダイル・アッ=ザアファラーン修道院に移りました。1959年には、シリアのダマスカスに移りました。
■アンティオキアの総主教たちによって称されている聖イグナティウス
初期の数世紀の間、アンティオキアの総主教たちは、即位後も自分たちの名前を名乗っていました。しかし、イェショウ総主教が878年に即位したとき、彼は聖ペテロの次の総主教であった偉大な殉教者イグナティウスに対する崇敬の念から、イグナティウスという名を採用しました。他の4人の総主教たちも彼に倣いました。マルディンの主教、ウェヘブの息子であったヨセフ総主教が1293年に就任した時にもイグナティウスという名を採用し、この慣習は根付くこととなり、現在に至るまでシリア正教の伝統となっています。
■アンティオキアの総主教座と他の使徒座との関係
キリスト教の初期の数世紀の間に形成された教会法によれば、主要な都市(メトロポリス)の主教は、首都もしくは王国の要都市の主教という意味で、府主教(メトロポリタン)と呼ばれていました。キリスト教の様々な地方会議や全地域会議を通じて、主教職はついに大主教職となり、偉大で等しい使徒座がアンティオキア、アレキサンドリア、ローマに認められていました。381年のコンスタンティノープルの公会議で、コンスタンティノープルの主教座もこの三つに加えられました。この4つの主教座は、それぞれの都市及びそれぞれの戦略的位置における政治的重要性によって高い地位を獲得しました。5世紀中頃、これらの都市の主教たちは、教父たちの指導者という意味を持つ総主教と名づけられるようになりました。全ての総主教座はそれぞれの管轄権を持ち、その傘下にある全ての教会は主教職と大主教職を中心とした聖職を通じて、その宗教的権威に従いました。325年のニケア公会議では、それぞれの総主教座の権威について次のように定めています。「エジプト、リビア、そして5つの都市における古い慣習を維持すべきである。なぜなら、アレキサンドリアの主教がこれら全ての地域の権限を持つからである。ローマの主教もまた、同じ権威を持つ。そしてアンティオキアの教会の威厳と他の主教職もまた、完全に守られねばならない。」ニケア公会議はこれらの間に優劣を付けず、それぞれの権威を確認したのです。
■信仰の連帯と公会議の権威
アンティオキア、ローマ、アレキサンドリア、そしてコンスタンティノープルの4つの総主教座は、信仰と教義において一致しており、権威と特権においても等しくありました。これらの総主教座を占めるものたちには、彼らの就任にあたって、連帯の権利を受けるためにそれぞれの信条文書を交換する慣習があったのです。この親交の権利の受理は総主教の就任のために必要であったのではなく、彼の権威を正統に行使するための必要条件のようなものでした。これらの偉大な4つの総主教座が自律性を持っていただけでなく、自己支配権をも持っていたことは、歴史的事実が証明しています。自己支配権とは、誰も他の総主教座に対する権威を持たず、誰も他の地域に干渉することは出来ない、という意味です。主教の場合で言えば、どのような主教でも他の主教に干渉することはできないということです。一つの管区内で主教の間に地域の内政問題や論争が生じた場合、大主教を議長とした主教の地域会議がその問題の解決のために召集されました。この会議は主教たちよりも上位にあるとされ、その管区における最高の権威を持っていました。信仰に関する大きな問題や深刻な事態が生じた場合、総会もしくは全地域会議が召集され、この会議の権威は4つの総主教座の総主教を含む全ての主教及び大主教よりも上とされていました。世界上の全ての主教がそのような会議に招かれ、そこに参加する権利を持ち、十分な理由なしには欠席してはならず、完全な世界教会が形成されたのです。結果として、全ての主教はその会議の決定を受け入れ、それらを全教会で実施しなければなりませんでした。この会議は、全教会における最高の権威と考えられていました。
全地域公会議に参加する者の責任として、4つの総主教座の総主教でさえも、重要な信仰問題に個人的に介入する権利は持っていませんでした。信仰問題に関するそれぞれの地域会議が決定した意見どうしの矛盾や多様性は、世界会議をしばしば混乱させました。そのような問題が全地域会議において論じられた場合、会議はそれが神の決定であったかのようにして、世界の教会によって受け入れられるであろう判断を採用することとなるでしょう。このタイプの会議は、真の信仰の正しさを権威付け、異説を拒絶するために召集されました。例えばニケア信条での信仰宣言は、教父たちがそれぞれの書で詳細に引用し、教会によって初期から受け入れられることとなりました。公会議は、しかしながら、非常に明瞭にそれを公式化し、そして信者にその用語を守るように求め、さもなければ彼らは破門に付されることとなりました。
■4つの偉大な総主教座の分裂
451年にカルケドン公会議が召集されました。それは、結果として使徒座を二つのグループに分裂させてしまいました。ローマとコンスタンティノープルの総主教座が1つのグループとなり、アンティオキアとアレキサンドリアの総主教座が他方のグループを形成しました。後者の二つの総主教座は今日まで信仰において結束しており、キリスト教の初期から守られているように、それぞれの指導性と絶対的な独立を尊重しあっています。ローマとコンスタンティノープルの前者の二つの総主教座は、11世紀に分裂しました。
■アンティオキアの総主教座
アンティオキアの総主教座の長は、教会内部で卓越した地位を常に保持し続けていました。彼の宗教的権威は、西はギシリア海から東はペルシアとインドの極東まで、北は小アジアから南はパレスチナの辺境までに至っていました。アンティオキアの教会は1つであり、一人の総主教のみによって代表されていました。東方諸国家に、彼以外の総主教がいたわけではありません。彼の管轄権はダマスカス、パレスチナ、キリキア、小アジアのメソポタミア地域、及びペルシアに及んでいました。彼の権威はこうした地域において国籍、人種、言語に関わらず支配的でした。大きな教区には大主教がおり、小規模な教区には主教がいました。彼らは管轄区の世話をする立場にありました。彼ら全員が総主教に従っていました。
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(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Pub/PZakka1/SOCAtAGlance.html
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