サルガの聖ヤコブ
シリア正教の典礼 ―驚嘆と畏怖、愛と憐れみのその瞬間―
   この章はSyriac Orthodox Resources Worship...を訳したものです。

 

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 シリア正教会の聖餐式は、現在80種類以上はあるとされる全キリスト教界のアナフォラ(パンとワインの聖化を祈る祝文)の中で、最も豊かなものと言えるでしょう。シリア語では、聖餐式は「qurobo」(「接近」という意)か「qurbono」(「聖体」もしくは「犠牲」という意)と言います。シリア教会の聖教父たちは、人間の外的な感覚には理解できない方法でパンとワインが人間の性質に合わせて主の体と血になるという深遠なる神秘を言い表すために、この典礼を「rose qadeeshe」(聖神秘)と呼びます。

 典礼は基本的に、「奉献儀式」と正式な「アナフォラ」という二段階で構成されています。奉献儀式は準備典礼と言葉典礼からなっており、使徒信条を唱えて終わります。アナフォラは、父なる神へ向けられる平和のキスの祈りで始まり、パンとワインの祝福を行い、想起祈祷、聖霊祈祷、和解の6つの祈り、割裂きと混一の祈り、主の祈り、大いなる昇高、聖体拝領、感謝の祈り、信者の解散、そして聖体拝領後の祈りと続きます。聖典礼の成聖の部分は、パンとワインの祝福で始まり、成聖の祈りで完了します。

 シリア正教の二人の偉大な教会父、ケフォのモーセ(903年死去)とサリビのディオニシウス(1171年死去)は、この典礼についての貴重な記述を残しています。こうした教父たちを通じて、人はシリア教会の聖餐式に秘められた豊かな象徴性と深遠な神秘に関する洞察を得ることができます。彼らの洞察は、後世の人々が典礼注釈を書く際の基盤となりました。

 聖餐式の間、司祭は2回、手を洗います。聖餐式のために聖壇の準備を整える行為の一部として彼が祭服を身に着けた時、そして使徒信条を唱える時です。司祭は手を洗う身振りによって、世俗的な思考を全て捨て去って心も魂も精神も全て清らかにすべきことを、信徒たちに気付かせます。2度目に手を洗うときには、自分を捧げ、主の晩餐を分かち合うためには人は完全に浄化されていなければならないということを思い出させるのです。

 聖三祝詞または聖三賛唱は、預言者イザヤが主の王座で目撃したビジョンと、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」という六翼のセラフィムの唱道を思い起こさせます(イザヤ6:1-3)。さらに、アンティオキアのシリア教会に記録されているところによると、私たちの主が磔にされている時、セラフィムが天国から降りてきてキリストの体の周りを回り、聖三賛唱の最初の三つの節を歌ったのですが、その時は「私たちのために磔にされた」という部分を省きました。なぜならイエスは天使たちのために死んだのではなく、人間のために死んだからです。ピラトにキリストの死体を要求したアリマタヤのヨセフもまた、その場におり、セラフィムの聖歌を完全にしたいと思って次のように歌ったそうです。「我らのために磔にされた主よ、我らを憐れみたまえ。」聖三祝詞の時、司祭は最初に聖壇板(tablitho)の角に触れ、次に聖体皿の縁、そして最後に聖杯の口に触れます。この動作は、子が三つの段階で神の賛美を歌う天使の聖歌隊の三階層を通って昇天したということ、そして主の神秘的な現前がこれらの三つの典礼具に結びついていることを神秘的に意味します。

 典礼の全体を通じて、司祭が膝を折って聖壇の前で跪くことは、アダムの罪によって私たちが堕落したことを意味しています。その司祭が立ち上がる時は、キリストの復活による私たち自身の復活が象徴されています。

 言葉典礼が始まるまで聖壇を幕で覆っておくことは、キリストの来訪の準備段階であることを表現しています。この言葉典礼の時に、旧約聖書からの朗読が行われます。聖壇の幕の奥で行われている静かな行為によって象徴されているものと一致する箇所が朗読されていきます。割裂きの祈りにおける幕は、十字架上での主の苦しみと死の恐ろしい瞬間を強調しています。また、その幕は、磔にされた時に太陽が暗くなったことを表しています。聖体の提示までの幕は、キリストの栄光と支配における再臨の前触れとして、最後の日に太陽が暗くなることを意味しています。

 香炉の祝福の時、聖三位一体の告白が行われます。信徒たちは皆、司祭が父、子、聖霊の神聖さを宣言した時に「アーメン」と応えます。香炉は神の子を自らの中に宿した聖処女を意味しています。燃える石炭は私たちの人間性を象徴し、香炉の中に置かれた香は神の子を表します。香炉はまた、キリストの道を準備した洗礼者ヨハネを思い起こさせます。香炉は聖所に運ばれ、次に人々のほうへと持って来られ、そして聖壇に返されます。これは、キリストが世界へとやって来られ、彼の父の無限の愛を人類にもたらし、私たちのために彼自身を捧げ、そして父の元へと帰り、天と地を和解させたことを意味しています。

 使徒信条が唱えられる間、助祭は香炉を持って教会の身廊を歩き回り、そして聖壇へと戻ります。この行動は、神格から発せられ、変わることもなければ減少することもない聖三位一体の素晴らしさを示しています。それはまた、天国から降り来て、私たちのために彼自身を父に捧げ、私たちを彼の父の元へと連れ戻すことによって、その神聖さが変化したり失われたりすることなく人類全てのために償い、和解の香りとなった、言葉である神を示しています。

 平和のキスによって、私たちの隣人に対する内なる愛と調和が目に見える形で示されます。互いに平和にさせてもらうことによって、人は神とも平和にさせてもらうのです。相互に与え合った平和は互いの敵意をなくし、イエスが平和と愛に私たち全てを統治させることによって、神と人間の間の敵意に終止符を打ったことを意味しています。平和のキスはまた、私たちの主の言葉を実行することでもあります。 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰ってきて、供え物を献げなさい。(マタイ5:23-24)」それはまた、聖ペテロの言葉も思い起こさせます。「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。(1ペテロ5:14)」

 奉献において司祭が聖杯布(shushefo)の左側の角を折り曲げることは、キリストの墓に封をすることを象徴しています。聖杯布は、聖体の中に秘められた神の不可視性を象徴し、またキリストの犠牲が旧約聖書の律法の生贄によって予示されていたと告白するために、聖体の上に広げられます。聖杯布が持ち上げられてパンとワインの上で振られる時、教会は天使たちが主の墓から石を転がし除き、恵みが聖体へと流れ込む道を作り、それを通じて恵みを全ての信者へと至らせ、信徒に赦しと救済を与えることを思い起こします。同じくこの動作は、私たちがキリストの犠牲を追体験しながら聖壇の上で起きつつあることを曇りなく見、そして理解するために、私たちの心から人間性を取り囲んでいる盲目の情熱を取り除く必要を示しています。

 パンと杯の祝福の言葉の次に、司祭はスプーンとその小さな置き布(gomouro)を持ち上げて右側に置きます。司祭は、空に閃く雷光のようとされる、最後の日のキリストの再臨を示すために、これらを素早く彼の右肩の上に持ち上げます。スプーンは私たちの主を、置き布は彼の王座を表しています。これらを右側に置くことは、キリストが父の右側に座ることを示しています。

 パンとワインの上で手を振ることによって、司祭は、ヨルダン川で第三のペルソナがキリストの上で行ったように、聖霊が天から降下して聖体の上で舞っていることを示します。手は、処女マリアの子宮の上に降下して言葉を受肉させた聖霊の、そして今パンとワインを真に主の体と血にするために降下してきた聖霊の、その翼の羽ばたきを表すような仕方で振られます。

 割裂きの祈りで司祭が聖体を左手から右手へと移すことは、主の苦しみと死、復活を象徴し、そして全ての人類が悪から救済へと移されたことを象徴しています。司祭が聖血を聖体に塗る時、私たちは十字架上でのキリストの恐ろしい、償いの行為を思い起こします。その後、聖体は主の復活を示すために持ち上げられます。

 そして、畏敬の念を起こさせる大いなる昇高の瞬間に、キリストの昇天と天の従者たちの前での彼の栄光を思い起こすため、司祭は聖体を持ち上げます。聖体が信徒たちの前で持ち上げられる時、火が灯されたろうそくを持って聖壇の左右に立っている二人の助祭は、復活の時に現れ、キリストの昇天の際にもいた二人の天使を象徴しています。彼らはこう言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。(使徒言行録1:11)」

 聖体が聖壇から下ろされて拝領のために信徒たちの方へ運ばれる時、キリストの再臨が予示されます。そして私たちは、栄光に満ちたキリストの天からの再臨の時に、畏怖をもって立っていなければならないと教えられます。司祭が聖壇から出てくると、それが磔にされたキリストの結合した体と血であることを示すため、彼は手を十字にして聖体を持ちます。

 最後の祝福が行われている間に、信徒たちは、キリストによる救済、洗礼を通じた私たちのキリストへの委ねによる救済の再確信と共に、解散します。この再確信は、現在生きている者たちのみでなく、最近であろうと遥か昔であろうと、生きていようと死んでいようと、キリストの中へと洗礼を受けた全ての人々を含んでいます。平和の中で送られた信徒たちは、常に司祭のために祈るべきとされています。司祭は聖体の残りを頂いた後、また主の晩餐を祝うために戻ってこられるという祈りに満ちた希望と共に、しばしの間、聖壇を離れます。

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/Liturgy/Anaphora/Preface.html


   
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