シモンファーザー:棕櫚の祭日に聖墳墓教会にて
シモンファザーに聞いた話
   聖マルコ修道院で私たちの指導司祭であるシモンファーザーに聞いたお話です。

 

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■教会と罪の赦し

Q. マタイ18にあなたが地上でつなぐことは、天上にでもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれるとありますが、この聖句についての解釈を教えていただけますか。

A.  司祭の叙任の後、司祭は天からの霊的権威を受けると言われています。告白の間、もし彼がつながれるなら、つまり地上でもし赦されなければ、天上でも赦されません。もし司祭が罪を赦すなら、彼は天上でも赦されます。これは神が信者に与えられた権威によるものです。
 罪からの解放の逆は何でしょうか?解放の逆はつなぐことです。そして教会は、教会の頭は主教ですが、特別な座です。もし教会が無く、主教がいなかったら、司祭にも教会・司祭にも信者にも、霊的病がおき、異教徒のようになってしまいます。―異教徒というのは悪いことを続ける人のことです。
 そこで、あなたが地上でつなぐものは天上でつながれる、というのは主教が罪をつないだままなら天でもつながれるが、地上で解いたもの、赦したものは天上でも赦されるということです。全ての信者は、キリスト教徒であっても過ち、罪を犯しますから、赦しを得なくてはなりません。

 'そこで、再び、私は言う、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら'・・・これはとても強く熱望して、神に求めなくてはなりません。そうすれば与えられますが、そんなに簡単ではないです。非常に精神的に求め、求めることは正しい道に沿って受け入れられるものでなくてはなりません。敵に対抗することを神に求めてはなりません。聖句に、'敵のため、神、イエスキリストに祈りなさい、彼等が悔い改めるように、神の栄光のため'とあります。

 '二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。'彼は・・・本当に善い方です・・・霊的な例を示されました。シモン・ペトロが「私の兄弟が私に対して間違いを犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか?」と聞いたとき、イエスは「7回の70倍まで赦さなくてはなりません」といわれました。こうして、彼は天の父の彼の子供達への慈悲、尽きることのない慈悲、ここまでの慈悲深さを示しました。

 天の父は愛です。神の国とはそのようなものです。'ある王が家来達に貸した金の決済をしようとしたところ、一万タラトン・・・これは大変な額です・・・借金している家来が、王の前に連れてこられました。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分の妻も子供も、また持ち物も全部売って返済するように命じました。家来はひれ伏し、「私の主よ、アガナ・ライロッホ・・・堪えて下さい、全てお返しします」と願い、その主君は憐れに思って彼を解き・・・解いたというのは赦したということです・・・その借金を帳消しにしました。ところがこの家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言いました。仲間はひれ伏して、「どうか待ってください。全てお返ししますから。」としきりに頼みました。・・・彼の主は彼を呼び彼に言いました。「悪い僕だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました。
 これは大変な状況です。死ぬまで出られないでしょう。'そのように、私の父も、あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなた方に同じようになさるのです。'

 さて、この王とは誰でしょうか?王とは神です。王とは永遠の王です。この解釈をご存知ですか?彼は最後の日には全ての人がしたことについて決済をしようとしています。ですから何百万億という人々が神に借金をして、つまり罪、ひどい過ちを犯しているわけです。そしてこの人は大変な借金を主に対して負っています、十万タラントンは大変な額です。人を殺したのか、毎日毎日過ちを犯し、彼の全ての過ちは一つに積みあがります。この人はどうしてこの借金を主に返すことが出来るでしょう。決して返せません。もし彼が毎日悔い改めても決して返せないでしょう。
 私達の全ては罪人です。もし王がわたしたちを彼の正しさゆえ罰しようとしたなら、人はすべての持ち物を売り、妻も子もまた持ち物も売り、そして死ななければなりません。私達は全て神に対して罪を犯しますので皆死ななければなりません。私達は全て罪深いからです。しかし生きている間、私達は主の前にひれ伏し、悔い改めて、「主よ、赦し憐れんでください」と嘆願するなら、私達の神は憐れみ深く慈悲深いですから赦してくださいます。彼は私達を解放してくださいます。しかしもう二度と過ちを犯さないよう、気をつけなくてはなりません。
 この罪深い人は神がなしてくださったこと、どんなに大きな恵みを受けたのかを理解せず、外へ出て仲間の一人に会うと、彼を100ディナールの借金のため捕まえました。十万タラントンに比べれば100ディナールは非常に小さな額です。主が彼にしてくださったことの全てに比べれば・・・。ところが彼は仲間を罰し始めました。彼は主がしてくださったことを理解し、同様に赦すべきだったのです。しかし彼はどのように友人に慈悲深くあるべきか理解しませんでした。そこで、この話を聞いた仲間達は主君の前に出て事件を残らず告げました。
 そのように天使達は人間について、私達の主に非難して告げ、「主はこれらの人々を赦したのに人々は過ち続け人を殺し人の財産を奪っています」と主の前で言います。地上の天使達は私達を呼び、あなたの犯した過ちで満ちた書類を示し、牢役人へわたすでしょう。牢役人とはサタンです。そのように、天の父は一人一人が兄弟や友人にしたこと心に犯した罪を罰します。ですから赦しを求め嘆願しなければなりません。

Q. あるテレビで、山中の修道院が―シリア正教ではないのですが―、盗人達を防御するため銃を持っているのを見ました。キリスト教徒は人を殺してはならないのに、修道士が盗人と戦うことは許されているのでしょうか。
A. 今日全てのキリスト教徒が聖書の言葉を完全に守っているとは限りません。イエス・キリストは剣で殺したものは剣で殺されるといいましたから、その人たちは私達の主の命令に反しています。その人たちは自分達の弱さを意識しており、その人たちの心に神は忘れられています。

Q.  しかし主は最後の晩餐のときに剣を持って行けと使徒達に言いました。
A. 私達は時には剣を携えることは出来るのです。ただ安全のために持っておくためで、殺すためではありません。彼は2つの剣があるなら十分だと言いました。全ての使徒たちに一つずつ持てとは言わなかったのです。そしてシモン・ペトロが祭司長の僕の耳を切ったとき、彼にもう十分です、止めなさい、と言い切られた耳を元どおり戻しました。そうして、敵に対しても憐れみ深くあるべきことを示したのです。
 私たちもそのように敵に対しても憐れみ深くあるべきです。時に、軍は武器を保有する義務を持ちます。敵が襲い掛かったときは彼自身を防御しなければなりません。敵が彼を殺す前に敵を殺すのは軍や国の義務です。しかしその軍人がキリスト教徒なら、後で主のみ前に長いこと懺悔しなければなりません。そうでなければ罰せられるでしょう。

 (トルコのキリスト教徒)大量虐殺のときは、大変な殺戮がなされましたが、キリスト教徒も敵に向かって銃を撃ちました。殺戮と迫害の一年後ようやく生活の安全を得て、彼等は主教や司祭のところへ行き、全てを告白しました。たくさんの人を殺してしまった人もいるでしょう。
 そのときは主教や司祭は彼等を罰さなければなりません。人を殺したのですから、神に立ち返り、何年も祈り、断食し続けなければなりません。彼らは、「私を防御し私の家族を防御するため仕方なかったのです」というかもしれません。しかし司祭は、あなたは防御するべきだが殺すべきではない、それは完全に禁じられている、と答えたはずです。
 そこで司祭は彼等にこの世での罰を課し、彼らが何十年も断食し、貧しい人に寄付し貧しい人ややもめを助け、時々修道院や教会へ行き司祭や聖職者に彼の過ちのために祈るよう頼み、彼らの神への負債が少しでも返されるようにします。彼らが心からそうしなければ、全てを失うことになります。

Q.  私達は防御したとしても敵を殺すべきではないのですね。
A.  ええ。私達は全てを神の力に頼り、剣によって殺さないよう注意しなくてはなりません。彼自身を危険から守るため、敵の手や足を傷つけることがあったとしても殺してはなりません。

2006年3月6日 聖マルコ修道院にてシモンファーザーに聞いた話 

   
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