■エデッサの伝承:アブガル王
イエスがエデッサの王アブガルに書いたといわれる書簡の写本は、中世キリスト教世界中に良く知られ、その内容は、エチオピア語やグルジア語からスロバキア語やアイルランド語にまで及ぶ多数の異なる言語に翻訳され、またフィリピ、エフェソス、アンキラの他、エデッサ自体でも建てられた碑文の中で目につきます。
エデッサのアブガル王‘黒’とイエスの間の往復書簡と呼ばれるもっとも初期の記述は、カイサリアのエウセビオスによって紀元後300年ごろ書かれた教会史の中に見出せます。エウセビオスは、その典拠はエデッサ文書館のシリア語資料であり、彼はそれをギリシャ語に訳した、と伝えています。彼の記述によれば、病に苦しんでいたアブガル王はイエスによる癒しの業について聞き、来て癒してくれるようにと嘆願の手紙を書きました。エウセビオスは更に復活の後、アブガル王を癒しエデッサで宣教するため、いかに使徒トーマスが70人弟子の一人タダイオスを送ったかを詳述しています。これより一世紀と少しの後にシリア語で書かれたより詳しい記述は、アッダイの教えの中に見出されます(アッダイはシリア語で、エウセビオスの言うタダイオスに対応します)。後者の叙述のなかに見出される多くの新しい要素のうちに見出されるのが、エルサレムにいるイエスへのアブガル王の使者が彼の肖像を描く機会を得たという話ですが、これは、ビザンティン帝が944年に勝ち取った聖遺物としてコンスタンチノプールに持ち帰った、エデッサのマンディリオンもしくは聖顔布と後の著作家らが呼んだものの典拠として最も知られているものです。しかしこの変容の物語に話を向ける前に、往復書簡の内容を見ておきましょう。両方の記述の二つの手紙の内容はほとんど同じですが、わずかではありますが重要な違いと、後者のシリア語のものに拡充があります。これらは二つの文を並べてみることにより最も良くわかります。
アブガル王からイエスへの手紙
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エウセビオス(T巻.13)
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アッダイの教え |
統治者である黒アブガルは、
エルサレムに現れた
素晴らしい救世主であるイエス様に、
ご挨拶申し上げます。
私は、あなたとあなたの癒しについて聞きました。
あなたがいかに薬や薬草なしで
様々な癒しを達成しているのかを。
聞くところによれば、
あなたは盲人の視力を回復させ、
足なえを歩くようにし、
そしてあなたはらい病人を清め、
穢れた霊と悪霊を追い出し
長い病に苦しむものらを
あなたは癒され、
そしてあなたは死者をよみがえらせます。
私はあなたに関するこれらのことを全て聞き、
あなたはこれらの癒しを行うために
天国から降りてきた神その人か、
神の子のいずれかに違いないと確信しました。
それゆえ、私のところに急いでお越し頂き、
私が患っている病気を癒してくださるよう
お願いするため、この手紙を書いております。
更に私は聞きました。
ユダヤ人たちがあなたに対してつぶやき
ひどい目にあわせようとしていると。
さて、私は非常に小さく古雅ですが
二人には十分な
都市を持っています。
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黒アブガルは、
わが主、エルサレムに現れた
素晴らしい医師であるイエス様に、
ご挨拶申し上げます。
私は、あなたとあなたの癒しについて聞きました。
あなたが薬や薬草で癒しているのではないと。
なぜなら、あなたの言葉によって、
あなたは盲人の目を開け、
足なえを歩かせ、らい病人を清め、
そして耳の聞こえないものを
あなたは聞くようにさせ、
そして霊と悪霊と苦しむものを
あなたのその言葉によって
あなたは癒され、
死者でさえあなたはよみがえらせます。
私はあなた駕なさる驚くべきすばらしい事柄を聞き、
あなたは天国から降りてきた神であって
これらのことを行ったか、
これらのこと全てを行う神の子であると確信しました。それゆえ、私のところにお越し頂き、
私はあなたを賛美しますゆえに
私が患っている病気を癒してくださるよう
お願いするため、この手紙を書きました、
私はあなたを信じましたゆえに。
更に私はこうとも聞きました。
ユダヤ人たちがあなたに対してつぶやき
迫害しようとし、
あなたを磔にしたいとまで望み
あなたを痛めつけようと決意していると。
さて、私は小さく美しい
二人が静かにそこに住むには十分な
都市を所有しています。
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イエスからアブガル王への返答 |
エウセビオス
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アッダイの教え |
私を見ないで信じたあなたは祝福されます。
私を見たものは信じないだろう、
私を見なかったものは信じ生きるだろうと
私について書かれているからです。
さて、私にあなたのところに来て欲しいという
あなたの手紙についてですが、
私はまず、
私がこの世に送られた目的を
全て果たさねばならず、
それを完遂した後、
私を送られた方の元へ
引き上げられねばなりません。
そして、私が引き上げられたら、
あなたの病気を癒すために
私の弟子の一人をあなたの元へ送りましょう。
そしてあなたと、
あなたと共にいる人々に命を与えましょう。 |
私を見ないで信じたあなたは祝福されます。
私を見るものは信じないだろう、
私を見ないものは信じるだろうと
私について書かれているからです。
さて、私にあなたのところに来て欲しいという
あなたの手紙についてですが、
私がそのためにここへ送られた事柄が
これから果たされ、
私を送られた私の父の元へ
私は昇って行きます。
私が彼の元に昇ったなら、
あなたの病を癒し回復させる
私の弟子の一人をあなたの元へ送りましょう。
そして彼は
あなたと共にいる全員を永遠の命へと
改心させるでしょう。
そしてあなたの町は祝福され
敵がそれを支配することは二度と無いでしょう。
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アッダイの教えにおいて最初に注意の向けられる追加点はイエスの返答の末文であり、この内容がこの手紙を護符として使用させ、さまざまな町の壁に刻ませました。この手紙の最も初期の使用例の一つはギリシャ北部のフィリピで見つかっており、そのほか石に刻まれた写しはエフェソスの他、上に列挙した場所で見つけられています。これらの碑文はギリシャ語で書かれていますが、それにもかかわらずエウセビオスでは欠けている末尾の祝福が含まれています。
残念ながらこの往復書簡とこれにまつわる逸話は批判的詮索に耐えられず、アッダイはエフライム(エデッサで373年に没した)やエデッサのシリア年代記に知られていないのみならず、エデッサからの初期の墓石へのキリスト教表象の不在は、地方貴族階級の改宗というアッダイの教えの記述と一致しません。4世紀には多数のキリスト教人口を持つ町の多くが使徒伝来を主張したいと望み、このような主張を支える数々の想像的記述の勃興がもたらされました。しかしエウセビオスとアッダイの教えの記述が歴史的基盤を欠いているとしても、キリスト教が早い時期にエデッサに到達したということはかなりの相当性があります。でなければ、アラム語のエデッサ方言であるシリア語が、ローマ帝国東部と、それを越え更に東部のペルシャ帝国においてまで、どうしてそんなにも迅速に、アラム語話者キリスト教徒の礼拝語となったのか、説明しがたいでしょう。
ただアッダイの教えのより長い記述の中で本当らしく聞こえるのは、貴族らの名前と当地の地形です。アブガル王朝は241年に終焉を迎えますが、王達の記憶は長くとどめられ、最も充実した残存する彼らの名簿は、8世紀末ザクニンの年代記のなかに見出せます。これに基づき、貨幣と3世紀半ばからの公文書の証拠を足し合わせると、黒アブガルはこの名の5代目の王でしょう。アッダイの教えの中で述べられている改宗した貴族らの名はとりわけ興味深いものです。これらの多く―バル・カルバ、ハフサイ、‘アブドシャラマ、そしてシェメシュグラム―は後に続くキリスト教社会ではすぐに使用されなくなったものですが、3世紀エデッサ地方からの異教徒シリア語碑文の中で、その使用が立証されることとなりました。これは、4世紀初頭のアッダイの教えの著者の目的の一つは、エデッサの主だった一族の有名な祖先の非常に初期におけるキリスト教への改宗を主張することであったことを示唆します。
(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p103-104,121-122)
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