■序
今日ほとんどのキリスト教徒にとって、宗派を問わず、「宣教」という言葉はアフリカ、アジア、そして南アメリカの人々の間での、ヨーロッパもしくは北米のカトリックとプロテスタントの働き−しばしば文化的に無配慮なやり方による−を思い起こさせます。実際ヨーロッパと北米のキリスト教徒の多くは彼らのものを除き全てのキリスト教の支流はこのような宣教活動の成果であり、したがってこうした諸教会は早くても16世紀、しかしより妥当なところでは19世紀か20世紀からのものであろうと推定します。このような認識は政治的に危険(古代、しばしばイスラム期以前の共同体をヨーロッパ植民干渉のなごりと風刺させることを許す)で、神学的に有害(世界のキリスト教から人性の神性との関係に対する深い洞察の富を奪う)なだけでなく、そもそも欠陥があります。15世紀初頭まで地上でもっとも広がっていた教会は、現在も大部分は西ヨーロッパに限定されているラテンキリスト教のそれではなく、西はエジプトから東は北京へ、そしてアラビアの頂と南はインドから北はシベリアのバイカル湖まで広がるシリアキリスト教の教会でした。後の世紀においてその大部分は衰退させられましたが、シリア教会の伝播の物語は現代キリスト教に今も重要な関わりを持つのです。
■西シリアの宣教活動
これから見てゆくように、キリストの教えを知られうる世界の果てまで伝えた功績の多くは、東方教会と同義となったペルシャの東シリア教会にありますが、西シリア系、とりわけシリア正教の人々も大変活動的な伝道者、宣教者たちでした。
伝えられているところによれば、イエスの弟子たちが初めてクリスチャンの名で呼ばれるようになったのはアンティオキアであり(使徒伝11:26)、聖ペトロが殉教するローマに移るまでの7年間(紀元後33-40)最初の主教となったといわれています。驚くまでも無く、アンティオキアはキリスト教徒の学びと宣教活動の偉大な中心地として発達し、そのうちもっとも影響力を持った神学者たち、教会主導者たちには、聖イグナチウス、セラピオン、そして黄金の口のヨハネが数え上げられます。彼らの指導力と霊感のもと、そして今ではほとんど思い起こされることのないそのほか大勢の指導と霊感のもと、キリスト教は数世紀にわたってゆっくりとしかし確実に、その偉大な都市から近隣の町や村へと広がりました。(またシリア人は西方キリスト教会に様々な面で大きな影響を及ぼしています。たとえば6世紀ホムス出身の二ヶ国語話者シリア人、旋律作家ロマノスはビザンティン教会のため数多くの賛美歌をギリシャ語で書き下ろしましたが、これらは今も儀礼で歌われ、またギリシャ思想にエフライムや他のシリア人作者の解釈学的伝統を導入しました。また、テオドールという名の7世紀タルソス出身の修道士はイギリス、カンタベリィの大主教となり、そこでキリスト教を再建しましたが、同時にシリア人特有の伝統と習慣をもたらしています。)
シリアにおける最初期のキリスト教徒たちの家屋や教会、修道院の入り口の上に据えられた碑文はギリシャ語によるものであり、これはギリシャ語がアラム語の村落にあっても初期宣教者たちの多くに用いられた言葉であっただろうことを示唆します。しかしながら、4世紀後期から5世紀になるとシリア語碑文の数が増加しており、このころからこの地域においてエデッサ(現在のトルコ東南部ウルファ)で訓練を受けた宣教師たちの活動が活発となってきたことが示されます。エデッサはアンティオキア影響圏の範囲内にありましたが、独特の歴史と伝統を有しており(国際的に有名な神学校についてはいうまでもありません)、それ自身で主要な宣教中心地だったといえます。エデッサの主要言語はシリア語であり、アラム語系の方言は中東の地方一帯でも、'ギリシャ化'した都市の多くの人々によっても話されていましたので、この東方「国際語」の使用はエデッサの宣教師に大きな利点をもたらしました。近郊に開花しつつあった数多くの修道院や修道共同体の存在にも助けられました。これらが必要な伝道者達を提供したからです。エデッサにはやはり人々を改宗させることに活動的で、その反論を打破しなければならない競合する数多くの教派―マルキシオン主義、マニ教、グノーシス主義など―の存在という障害もあり、紀元後451年のカルケドン公会議で公布された教義をシリア正教が拒絶して以降、聖俗を問わない皇帝権力による迫害がありました。(イスラム政府が支配した7世紀からはまた新たな問題群が引き起こされました。)これらの障害(そしてローマとペルシャ帝国間の境界に位置するという明らかな政治的困難)にもかかわらずエデッサからの宣教師たちは北へも南へも深い影響を与えました。
(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p167,185)
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