■中央アジアのシリア教会
中央アジアのキリスト教徒についての最も初期の既知の資料は、エデッサのバルダイサンによって書かれた2世紀のシリア語著作、「諸国の慣習の書」のなかに見出せます。この書の中に「ギラニア人[カスピ海東南]とバクトリア人の中にいる私達の[キリスト教徒の]姉妹達」という記述があります。後の文章がこの両者の中に確立されたキリスト教共同体に言及していることから、この報告はほぼ確実に信頼できるものです。しかしながら、ペルシャの教会によって東へ遣わされた主要な宣教には、後に3つの波があったようです(これは私達の歴史資料の断片性を反映しているのかもしれませんが)。すなわち5,6世紀と8世紀、そして11世紀に。
最初の頃はペルシャ教会の偉大な宣教の中心地は、中国への主要貿易路に位置していたオウクス川(アム・ダルヤ)の西、メル(現在のトルクメニスタン、マリ)でした。メルは既にマニ教徒と仏教徒(初期のキリスト教徒の主な競合者であった)の宣教中心地となっていましが、4世紀半ばまでにこの都市にキリスト教人口があった明らかな形跡があり、424年までに独自の主教管区を有しました(544年までにこれは大主教管区に格上げされました)。5世紀のキリスト教徒の宣教については、シリア語からソグド語に翻訳された文章の断片からいくらかの見解を得ることが出来ます(ソグド語はブハラとサマルカンドを中心とする地域に発祥し交易路沿いに広く分布していた人々の東イラン言語であり、彼らの多くはシリアのキリスト教かマニ教に改宗しました)。この文章は東イランとアフガニスタンで働いたバル・シャッバという名のメロの主教について述べており、そこにおいて彼は
土地と水とを購入し要塞、宿、家々を建て、庭を造った・・・そして仕えている兄弟姉妹たちを住まわせた・・・彼はそこに教会と全ての必要なものを建て、又そこに助祭や長老達を住まわせた。そして彼らは聖霊の恵みにより、又信仰深い聖バル・シャッバから彼らが受けた力と権威により、教え又洗礼を授け始めた。
この行いは主教の信仰深さを示すのみならず、莫大なエネルギー、財産、そして人的資源の投入をも明らかに表しています。もしこれがどこでも一般的だったなら、ペルシャからの宣教師達が肯定的反応を示されたのはおそらく当然のことだったでしょう。6世紀半ばまでにサマルカンドが地域の主教管区の要所となったことから、ペルシャ教会はオウクス川の東まで影響力を延伸したようです。これは数多くの散在する考古学的発見からも明らかです。これらに含まれるものは、詩篇1から2の一部がシリア語で書かれているペンジケント(サマルカンドの少し東)で発見された陶片や、ウルグット近郊からの様々な短いシリア語碑文、タシケント地方からの裏面に「ネストリアン」十字のある6-8世紀の硬貨などがあります(こうしたものは高い権威を持つ人達だけが発行できました)。
更に印象深いことに、シリア語のの年代記によれば、549年北バクトリアに生きたエフタル別称ホワイトフン族の王が、ペルシャのカトリコスへ彼のキリスト教徒司祭であった家来の一人を遣わし、彼の民のため主教に叙任されるよう求めたといいます。この成功は短命に終わりませんでした。エフタルの治世が更に東から来た突厥の侵略により滅びた時、彼らもまた改宗したからです。こうした出来事の最も有名なものは7世紀半ば、エリヤという名のメルの主教が、遊牧民族突厥の軍団に対峙し、天候に影響を与えることで突厥の呪術師の力に勝ったことから彼らをキリスト教に改宗させた時におこりました。
8世紀ペルシャ教会の重要人物は彼らの傑出した総主教ティモテ1世でした。彼は、そのキリスト者としての信仰の堅持が彼と議論したアッバース朝カリフの敬意を獲得した穏やかな人柄の優れた学者であったのみならず、キリスト教宣教の情熱的な後援者でした。781年おそらくティモテがマロン派の文通者宛てに次のように書いています。
突厥の王は彼の国(の住民)全てと共に、彼の古代からの偶像崇拝を離れキリスト教徒となり、彼の国に大主教管区を創設することを私達に手紙で求め、私達はこれを行いました。
この頃から天山山脈北バルハシ湖南(現在のキルギスタン)の平野に住んだキリスト教徒の突厥人口の少なからぬ形跡があることは書き留める意味があるでしょう。たとえば、トクマク近郊のアク・ベシム(砕葉)村で発掘された8世紀の教会や、より最近では10-11世紀の修道院複合施設がそこで見つかっています。更にトクマクとビシュケク近くにはシリア語と突厥語の碑文のある墓石を含む9世紀から14世紀の大きなキリスト教墓地があります。碑文の中には当地のキリスト教徒が謳歌した文化的信仰生活を伺うことが出来るものがあります(ソグド語など当地の言語で残されているキリスト教文学の断片からもこれらは伺えます。)これらの墓地の碑文の一つには次のように書かれています。
1627年(紀元1316年)、掩蔽の突厥龍の年。これは知恵の注釈者尊師ペトロの子、全ての修道院を光で照らした祝福された注釈者、教師シュリハの墓である。彼の声はらっぱのように高く響いた。私達の主が彼の清らかな魂を義人や教父たちと共にしてくださいますように。彼が全ての(天の)喜びに加わりますように。
またティモテについては訓練された大量の宣教師を東へ派遣したことが記録されています(そしてカシュガルやホータンといった都市には同時代の教会跡があります)。彼は更に、彼がチベット人のための大主教を叙任しようとしていたことを記述しています。チベット人との接触が実際にあったことは西チベットラダックにある旅行者によって刻まれたペルシャ十字とキリスト教徒の碑文や、8-10世紀に創作されたチベット語文書の中にある「イエス・メシア」への言及から明らかです。
シルクロードに沿ってさらに東、変わりやすいタリム盆地の砂漠を取り巻くように、吐魯番(トルファン)から10キロメートルほど北のブライクで、東シリア修道院の遺跡から数多くの写本断片が見つかりました。そのうちのいくつかはシリア語で書かれ、大半はソグド語でしたがシリア文字で書かれていました。そのほか吐魯番オアシスからの重要な発見は、12世紀初頭に作られた、壁画で装飾されたコチョの教会のそれです。更に東へシルクロードをたどると敦煌では、そこから発見された数多くの中国語キリスト教文書と並んで、聖句集の一部を含むシリア語断片が見つかっています(これらについては後に触れます)。
11世紀の間に数多くの主要な東テュルク民族がキリスト教に改宗しました。こうした出来事の最も初期の記録はアブディショという名のメロの主教によって1009年に書かれた手紙に残されています。彼は20万人の新しい改宗に言及しており、この出来事はバイカル湖とモンゴルの草原の間に住むケレイトの改宗としばしば関連付けられます(彼らの改宗は確かですが、正確な年次と方法は知られていません)。後のシリア語の脚色によれば、ケレイトの王は山で狩りをしているとき吹雪に襲われ、彼が望みを失ったとき、聖人(聖サルギスという話もあります)が彼に現れ、彼がキリストを信仰告白したなら彼を助けることを約束し、彼はしかるべく行ったとのことです。ケレイトのキリスト教はナイマン、メルキト、契丹、オングートなど近隣のテュルク民族に広がったようです。南へはチベット系のタングート族の相当数がチベット山脈とモンゴルの間の彼らの新しい王国で同時に改宗しました。
西洋人旅行者の記述から、14世紀に入ってからも中央アジアの多くの地域でキリスト教が栄えていたことは明らかですが、その後急速に衰えたようです。これについては単純な説明は出来ないのですが、二つの要因が挙げられます。キリスト教徒の集中する中央アジアの都市人口の多くが13-14世紀のモンゴル軍の襲撃の間に虐殺されたことに加えて、14世紀にヨーロッパでは「黒い死」として知られるペストが中東の多くの地域をも襲ったこと。このことは、この世紀の終わりに跛行のティムールの戦闘の間になされた多くの教会学校や修道院の破壊と共に、14世紀の過程において東方教会の教会組織の深刻な縮小を招きました。これらは全て、イスラム教や仏教の影響が増していく時にあって、アジア地域のための指導力の喪失に帰結しました。いずれにしろ否定し得ない帰結は、一千年の宣教の成果がたった一世紀の間に無に帰したということでした。
(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p193-196)
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