■ペルシャのシリア教会
キリスト教の初期の発展の記述の大半はローマ帝国内の教会に排他的に焦点をあて、ペルシャ帝国内から東への数多くの成果を顧みることがありません。ペルシャ帝国統治者に改宗者は現れず、キリスト教が国教になることもなかったにもかかわらず、ペルシャ教会が歴史上もっとも成功した宣教教会へと進展したことはむしろ驚くべきことです。この成功はいくつかの事実に原因を帰することが出来るでしょう。ペルシャのキリスト教徒の神の言葉を伝えたいという明白な強い願いは、彼らに2つの利便を与えた地の利の幸運と共にありました。第一に広大なペルシャ帝国に彼らが属したという事実は、多くの領土が彼らに向かって開かれていたことを意味します。第二に彼らは世界の主要交易路−シルクロードとして知られることとなるヨーロッパから中国へ伸びる多数のキャラバン・ルート、またペルシャ湾と南インド、そしてその先の海と国々を結ぶ海路―がペルシャを横断していたことに利を得ました。ペルシャのキリスト教徒たちは神学についても一般的な事柄についても教育を重視していました。(その多くの場合)ギリシャ語医学テキストに関する知識のおかげで、とりわけ医学の分野で彼らはしばしば名声を得ました。当然これらの技能は彼らの宣教の地一帯で需要がありました。彼らの学校の成功や6世紀のカシュカルのアブラハムの改革に続く修道院制の発達を通して、ついには苦難の多い宣教活動の仕事に着手する準備の出来た、練達と積極性に富む志願者たちを、多数得ることとなりました。
キリスト教化の初期の過程は、おおむね帝国の西の範囲すなわちメソポタミアからアルメニアに限られましたが、これらの地域では著しく敏速に進展しました。その最初期の中心地のひとつはアルベラ王国とその主要都市アルベラ(現在のエルビル)であったようです。これはその都市が大きなそして強力なユダヤ人口を有していた(ヘレナ女王とその他の支配家の構成員は紀元後1世紀にユダヤ教に改宗していたといわれています)ことから、自らもユダヤ教徒から改宗した宣教師たちに最適な環境を提供し得たためであったかもしれません。紀元後170年までのアルベラのキリスト教徒たちについては信用できる報告があり、235年ごろにはペルシャの教会は18ほどの教区と12名以上の主教を持つまでに発展しました。その数はローマ帝国の迫害から逃れてきた者たちと、またペルシャ軍によるシリアへの襲撃の間にとらわれとなった捕虜たちによって強化されました。シャー・シャープール一世による256年と260年にあったような襲撃は数多くの聖職者たちと教会役員たちのみならずアンティオキアの主教デメトリウス自身さえ捕囚とし、これらが必然的に教会の組織化と発展に貢献することとなりました。300年までにはその教会は、チグリス川をはさんで互いに向きあうセレウキア−クテシフォンの姉妹都市(現在のバクダッドの南)である帝国冬の首都に定着し、その主教はペルシャ教会内の裁治権を主張し、それを得ることとなったようです。さらに東、ベト・ラパト/ゴンディシャプールの新しい都市でも、元は奴隷労働者として連れてこられたにもかかわらず、キリスト教徒が繁栄しつつありました。彼らは実にそこでの大学の創設に巻き込まれ、ついには樹立するに至ったのですが、それは中世以前の世界における医科学の最も偉大な中心地のひとつとなりました。発展の成り行きは、教会が大主教のいる6つの管区と、その多数がこれらの管区を超えた責任を負う26の主教とに組織された、410年に開かれた教会会議の議事録からも明らかです。
皮肉なことにペルシャ教会に紛争を直接的にもたらしたのはローマ帝国内のキリスト教の成功でした。4世紀初期のコンスタンチン帝のキリスト教への改宗と、その結果であるこの新たな信仰の急速な成長は、それ以降キリスト教を彼の帝国の国教とするものとした380年テオドシウス一世による布告に頂点を迎え、これがペルシャ当局の激烈な反感を買いました。独自の復刻期を体験しつつあった拝火教の僧侶たちは、とりわけキリスト教をローマの宗教と位置づけることに熱心で、これによりその信者に政治的容疑をかけました。彼らはそうした内敵、とりわけ前線を分ける微妙な領土にその主な人口中心地を置く敵を有することの危険を誇張し、偶発的におこった荒廃していた拝火寺院に対するキリスト教狂信者による攻撃に注意を引き、帝国の政治弱体期の機会を利用してキリスト教徒とその他の宗教的対抗者(マニ教徒など)に対する苦い一連の迫害に着手しました。5世紀前半の幾度かの単発的な迫害の後、シャプール2世統治下の340年から379年に迫害は一般化しました。この迫害により、16,000人以上のキリスト教徒が死亡したと考えられ、中には344年に死亡したセレウキア−クテシフォンの大主教シモン・バル・サバアエが含まれます。平静な時期の後、420年に迫害は新たにされ、また446年(キルククで悪名高い大虐殺がありました)、そしてまた数年の後メソポタミアとアルメニアでおそらく153,000人にも上るキリスト教徒が死亡した時期があり、そしてまた540年代にも迫害がありました。
このような状況下にあって、424年に開かれた教会会議で、ローマ帝国市民であったアンティオキアの総主教よりむしろ東方カソリコスが、すべての規律と信仰問題に責任を持つべきと決められたことは理解しえることではないでしょうか(ただし総主教の称号は正式には498年までカソリコスに取り入れられませんでした)。彼らが自身を西方の同宗信徒から遠ざけるようとしたことは、モプスエスティアのテオドロスの教義への彼らの信奉についても一部説明するかもしれません。テオドロスの著作は、その才能にはるかに劣る弟子ネストリウスの431年エフェソス公会議での罷免のため、西方でますます疑念をもたれるようになっていました。(テオドロス自身の著作は553年コンスタンティノプール公会議で形式上有罪宣告されたにすぎません)。ペルシャの教会でのこうした神学上の発展は、489年皇帝当局が(テオドロスの著作が学習されていた)エデッサの学校を閉鎖、その残った職員と生徒たちとが新しくできたニシビスの学校へとペルシャ国境をひそかに越境したことによって促進させられました。ニシビスの学校は主要な神学中心地として急速に名声を得、これはその卒業生がペルシアの教会で支配的となったことを意味しますが、そこにテオドロス特有のキリスト論研究法と聖書解釈を取り入れました。これらのペルシャ教会の変化にはまぎれもない規律上、神学上の理由があった一方、彼らには現実政治的な便宜があったことも否定し得ません。その結果が教会と国家との関係を改善したことは、603年にローマ帝国に対する壊滅的な攻撃に着手したときシャー・クスロー二世が、ペルシャ人のローマ人に対する勝利をキリストに毎日嘆願していた東方総主教サブリショ一世に連れ添われていた事実からも明らかです。
7世紀のイスラムの到来は、宣教活動にいくつかの異なる方向への刺激も与えました。シリアの国境と組織的な「ネストリアン」迫害の除去は、ペルシャのキリスト教徒たちが初めてシリア、パレスチナ、そしてエジプトへと旅行し伝道することが出来るようになったことを意味しました(8世紀までエジプトに東シリア人の主教がいましたし、835年にはエルサレム主教が叙任されています)。もはやペルシャの拝火教徒たちの改宗への禁令もありませんでしたが、実践上教会は、まだイスラム教宣教師からの競合や衝突のないペルシャを越えた領土(後に見てゆくように)に焦点をあわせたほうが益になることに気づきました。その後何世紀もの間キリスト教徒はペルシャで繁栄し続けましたが、イスラム下のどこでもそうであるように、やがて磨耗し始めその数は次第に衰えました。しかしペルシャでキリスト教徒が本当に減少したのは14世紀末であり、この時チムールレンクのモンゴル軍により全住民が虐殺されました。それ以降は北クルド山脈やコーカサスといったさらに偏狭の地の共同体のみがいくらかの人口を維持しました。
シリア正教会から正統と認知された最後の東方教会カソリコスは484年に殉教したバボワイです。6世紀後期からシリア正教はササン朝において、タクリットに最高位の首都主教座(後に'マフリアン'と称される)を有する強力な存在となりました。7世紀から8世紀間のシリア正教の東方延伸はミカエル総主教の偉大な年代記にある主教のリストに明確に示されています。つまり7世紀から8世紀の間にザラン(イラン東部)、へラトとファラ(アフガニスタン西部)に新しい主教座が創設されているのです。これらは12世紀および13世紀まで継続し、一方13世紀にはイラン北西部に新しい重要な主教座、タブリスとマラガが創設されていました。
(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p190-192)
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