■中国のシリアキリスト教
シリアのキリスト教の中国への到達を、中央アジアへのそれと分けることは、多くの面でむしろ不自然でしょう。というのも、それは同じ宣教計画の一部であり、同様の激励と抑圧にあったのですから。しかし、その展開と中国人口に与えた影響力の違いから、ここでは分けて論じたいと思います。
中国のキリスト教の初期の歴史についての私達の知識は、シアン・フ(西安)に781年に建立され、1623-25年に再発見された石碑に大きく負っています。これは長い中国語(といくつかの短いシリア語の節)の碑文で覆われ、教会の地方史を要約する前にキリスト教の主な特徴を略述しています。この記述によれば、中国の権力者とペルシャの教会の宣教師との最初の公式な接触は635年に持たれました(もっとも、非公式な接触はより早い機会にあった事でしょう)。この年修道士阿羅本(おそらくアブラハムに充てた中国名)は壮麗な儀式に伴われ、彼が宮廷の客人として迎えられた長安の都に入りました。彼の聖典の写本は中国語に翻訳され皇帝太宗によって個人的に吟味され、彼は638年以下のように声明を布告しましたが、これは中国の公文書にも記録されています。
道に不変の名は無く、賢人に不変の体もない。方に合った教えを設け、密に人々を救う。大秦國(シリア)の大徳・阿羅本は経典と聖像を持って遠くよりこれを献納するため京に上った。その教旨を詳らかにすれば玄妙無爲である。その元宗を見ると、生を成すをして要と立する。・・・民を救済し人に利するため宜しく天下に行うべし。
この唐代初期に典型的な厚遇は、21人の修道士のための修道院を国費で都に建立する指令を伴っていました。唐代の遺跡から、キリスト教が、華々しくなかったとしたなら静かに、繁栄を続けたことがわかります。一時的な妨げはありましたが。745年の中国の勅令は洛陽の都の更なる修道院や離れた諸州のものに言及しています(たとえばその一つは西安から150マイルほど北西のチューチーから発見されています)。「光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監」となった伊斯(シリア語でイズドブジド)の貢献によって建てられた西安の碑からも明らかなように、個々のキリスト教徒もこの時期活躍しました。彼は高官として3つの帝国の下で勤め、教会や修道院の復興や修道士の扶養のため施しましたが、バルフ(アフガニスタン)から来たキリスト教徒でした。
ここで難しい疑問がわきます。現地中国人に相当数の改宗者はいたのでしょうか?西安の碑から知れる指導者たちは全て中国人ではありません(そして付されている修道士のリストはほとんどがシリア語と中国語の名前を有しており―シリア語だけのものもいくつかありますが―したがって彼らの出身はわかりません。しかしながら、いくつかの修道院が政治的、商業的中心地以外にあることから、現地中国人を含んでいた可能性はあるでしょう。現存するこの時代の中国語のキリスト教文献によってこの見解は裏書されるかもしれません。石碑に加え、一般、仏教、マニ教の文書と並んでキリスト教文書の貯蔵物が、それらが11世紀以前に封じられた西の敦煌から見つかっています。これらの文書の最も初期のものは、阿羅本の頃からの日付がありますが、シリア語句から中国語への洗練されていない翻訳を伴う、かなり粗野なものです。しかし、後の8世紀に、西安の碑の文章を作成したのと同じ修道士景浄(シリア語のアダム)によって翻訳されたものは、キリスト教の主要な概念や教えを表現するのに道教と仏教の用語を自由に借用・適用しており、はるかに印象的です。(事実、ある仏教徒の著者は786年に景浄が近くの僧院の僧が経典を中国語に翻訳する実際の手助けをしたことを記録しています―その著者はこのことで両者にひどい叱責を浴びせているのですが!)「グロリアインエクセルシスデオ(天のいと高きところには神に栄光)」の彼による翻訳からの以下の抜粋に見ることのできる、現代の宣教師に文化受容(inculturation)において千年以上も先立つ、この成果にはみごとなものがあります。
シリア語 |
中国語 |
生ける神の子羊
世の罪を除きたもう主よ
われらを憐れみたまえ。
父の右手に座したもうあなた、
われらの祈りを受け入れたまえ。
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永遠の命の王
彼の憐れみと喜びに満ちた子羊
全てのために、全てのために
彼は苦痛を負い
わなにおじけることなく来た
全ての被造物を
積み上げられた罪の荷から解放するために。
人々の魂を救い
咎から解放できるのは彼。
父である神自身の右手に彼の場所がある。
全ての拘束を再び超えた彼の座は
今や高くあげられる。
私達の偉大な師は彼に嘆願を述べ
全ての人は彼に祈る。
御身の船を送り
火の洪水に揺さぶられる
魂を救いたまえと。
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このような中国語の文書(翻訳と新しい神学的仕事の両者を含む)は、在中国のシリア人やテュルク人には必要とされ無かったことでしょう。そしてそれらが頻繁に筆写され広く流布していたことを示す奥付その他の筆記者の記録にからすると、これらはこの新しい宗教の精神的奥深さを単に帝国権力者に説くために作成されたのではなさそうです。となると、8世紀には、こうした文献を作成することを請け負うに十分な数の教養のある改宗した中国人がいたという代替案だけが浮かび上がって来ます。
中国のキリスト教徒の歴史のこの時期は、皇帝武宗が中国の僧院の幾何級数的な増大に終止符を打とうとした845年突然の終焉を迎えます。彼が特別に懸念していたのは仏教の僧院制度で、4千600の彼らの僧院が破壊され26万5千人の仏教の僧や尼が還俗させられました。しかし、彼は「外国の」宗教が手放しにされることを望まず、3千人のキリスト教徒と拝火教徒修道会員を還俗させ、すべての外国人は自国へ送還させられました。この打撃から完全に回復するのに仏教は400年かかったといいますから、これに比例するキリスト教の衝撃も想像がつきます。アラブ人の旅行者たちの話からすると、1076年に西安にキリスト教修道院はあったかもしれませんが、中国人のキリスト教が生き延びた他の形跡はほとんどありません。
既に見てきたように、この時期中央アジアとモンゴル高原では依然としてキリスト教が栄え拡大していました。チンギス・ハーン(その母はキリスト教徒であった)のもと13世紀モンゴル帝国に鍛えられ、多くのキリスト教徒たちとキリスト教徒部族が重要性と影響力を持つようになりました。彼らの中には商人や医者たちと共に、名高い将軍や長官、行政官たちがいました。支配者のモンゴル一族はしばしばキリスト教徒のオングート族やケレイト族の妻を娶り、これらの女性達の多くが―とりわけモンケ、フビライ、フレグ・ハーンの母ソルカクタニとフレグの妻ドクズ・ハトゥンは―大きな政治力を行使しました。それゆえフビライ・ハーンが中国征服を完了した1278年から、明朝創始者洪武帝の中国軍がモンゴルの首都ハンバリク(今の北京)を征服する1368年までの90年の間、おそらく現地の中国人ではなくペルシャ人やテュルクの聖職者によって運営されていたとはいえ、キリスト教の修道院や教会が再び中国の大都市や港に建てられました。モンゴル支配の終了そして全ての外国人の追放と共にこのキリスト教の短い繁栄はあまりにも突然の終わりを迎えました。
もうひとつお話しておく価値のあるエピソードがあります。1270年代ハンバリク出身のラバン・ソーマというウイグル人修道士が、彼の弟子マルコに説得されエルサレムへの巡礼に出かけました。幸運なことに彼らは彼らの旅を記録し、これはシリア語で残されることとなり、道中彼らが出会ったキリスト教共同体についての詳述ゆえのみならず、彼らが意図せずして巻き込まれる高度な政治問題ゆえに魅力的な読み物となっています。彼らの中東到着と同時に、マルコの旅は、彼がシリア語を話せないことから断ったにもかかわらず東方教会の総主教ヤブハラハ3世として叙任されることで、無理に止められました。おそらく、シリア語や神学上の修練において足りない点は、彼のモンゴルとその文化に関する知識で相殺されると考えられたのでしょう。一方、ラバン・ソーマはイルハン朝のアルグンにより、シリアと聖地をいまだ支配していたイスラム教徒のアラブに対抗しヨーロッパ君主がモンゴルと同盟を組む準備があるかどうか見極めるよう、ローマへ派遣されました。好奇心をそそるこの計画からは何も生じませんでしたが、ラバン・ソーマはヨーロッパを広く旅し多くの人々と出会い、その中にはフランスの王フィリップ4世、イギリスの王エドワード1世、そして1288年には、エドワードと同様、この東方教会のウイグル人修道士から聖体拝領に与ったことが報告されている教皇ニコラス4世がいました。
(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p196-198)
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