■エデッサのキリスト肖像画
おそらくアブガル王とイエスの往復書簡以上に有名であったのは、アッダイの教えの中に見出されるアブガルの使者、エルサレムにいた時「画家として、イエスの肖像を極上の色使いで描き、彼の主人であるアブガル王へ持ち帰った」、ハナンによって、イエスその人から作られた肖像画にまつわる追加情報でしょう。後に続く時代の事の成り行きに従い、この伝承的肖像画は数々の変遷を経て(ある人々によれば)あの有名なトリノの聖骸布!にさえなりました。
実際のエデッサのキリスト肖像画(今日で言うイコン)の最初の記述は、521年に亡くなったサルジのヤコブによって書かれたガラシャのダニエルの生涯の中に見出せます。この伝記の一箇所に、ダニエルと彼の仲間の修道士マリはエデッサに行き「キリストの肖像画によって祝福された」と述べられています。残念ながらヤコブはそれ以上の詳述を伝えていません―おそらく、彼の読者らは肖像画のことを知っていたので、より詳しい説明を必要としなかったのでしょう。
544年のペルシャ王ホスロー1世によるエデッサの包囲に関する記述の中で、ギリシャ教会歴史家エヴァグリオスはホスローのエデッサを得ようとする目的の一部は、手紙の中でイエスによりアブガルになされた都市不落の約束を虚偽として証明することであったと述べています。要塞を突破する最後の試みとして、ホスローは途方も無く大きな木製攻城機を建造しました。守備側はそこで、この攻城機に底面から火をつけようとトンネルを掘りましたが、木を燃え立たせることが出来ませんでした。失望した彼らは「人間の手が装飾したのではなく、神であるキリストが彼を見たいと望んだアブガルに送った、神の力によって描かれたイコン」を持ってきました。そしてイコンを水に浸し、これを彼らは木の上に振りかけました―。「するとたちまち神の力が信仰によって行った彼らに訪れ、先ほど彼らには不可能であると証明されたことが今度は完遂されました。その木に即座に火が点いたからです。」全ての彼の試みに失策したホスローはついに退却し、都市は守られました。
他にこの肖像画の典拠となる可能性はあるがおそらく違うであろうものが、540年エデッサの聖智恵(ソフィア)教会落成を祝う詩歌の中に見出せます。この壮麗な丸天井の教会は、悲しいかな、もはや残っていませんが相対的に小さい規模で現在もイスタンブールに建っているアヤソフィアに多少似ていたはずです。その円蓋とアーチ天井を描写した後、不詳の著者はこのように続けています。「その大理石には手によって作られたのでない画が押されていた。」これをエヴァグリオスによって言及された「手によって作られたのでない肖像画」の根拠とする人たちもいますが、教会の内壁に張られた大理石の脈様について述べているものとしたほうがずっと妥当でしょう。
次に私達がこのイコンに遭遇するのは7世紀末になります。エデッサは、今やアラブ支配下にあり、そこにはアタンシウス・バル・グモエという一人の傑出したシリア正教徒市民がいました。彼の管理能力はアラブの統治者‘アブド・アル-マリクに感銘を与え、彼は‘アブド・アル-マリクの弟、エジプト首長‘アブド・アル-‘アジズの護衛に任命されました。こうした高い地位は大きな富をもたらしたので、彼の仲間のエデッサ人達が彼に接触してきました。彼らは課税額を支払えなかったのです。この機会にアラブ当局は、もしエデッサ人が支払いきれないならキリストの肖像画を押収すると脅していました。失望の内に彼らはアタナシウスのところへ来て、彼は一つの条件の元に金銭の貸与を承諾しました。つまり、エデッサの王党派教会にあったキリストの肖像画を、金銭が払い終わるまで彼の家に収容することとしたのです。アタナシウスは「それから技巧に優れた画家を呼んで来ると彼に正確な複製を作るよう命じました。この命は成し遂げられ、画家が古く見えるよう色使いを暗くしたため、複製は本物そっくりに出来上がりました。その後に、エデッサ人達が金銭を返済しイコンを戻してくれるよう頼んだとき、彼は新しい複写を彼らに与え、本物を彼の家にとって置きました。アタナシウスはそれからイコンを収容するための壮麗な新しい洗礼堂を建造し、落成するとイコンはそこへ移設されました。
この記述は総主教ミカエル(1199年没)による年代記の中に見出せます。彼はこれをそれ以前のテル・マーレのディオニシウスによる(今は失われた)年代記からとったと述べており、ディオニシウスはというと、彼の母方の祖父、トゥール・‘アブディンのダニエルからこの話を受け継いだと述べていました。この話が本当なら、当該イコンの消息はここで途絶えます(王党派に返却された複製とは対照的に)。いずれにしろ、王党派の共同体は明らかに彼らが、今や事実として「手で描いたのでない」、本物の肖像画を持っていると信じ続けました。ギリシャ人作家ダマスカスのヨハネが、アブガルの使者ハナン(ギリシャ語でアナニア)は、実はキリストの顔のまばゆい輝きのためキリストの肖像画を描くことが出来ず、これを埋め合わせるため「キリストは彼の神聖な命を与える顔を一枚の布に押し当て、彼自身の似姿の印影を布の上に残され、アブガルに送りました。」と説明しました。したがってヨハネは、更に変遷を遂げる肖像の最初の証言者です。こうして、受難にあるキリストの顔から汗と血を拭くようにとハンカチを差し出し、彼の顔の像が印写されたものが返戻されたと言われる、ベロニカにまつわる西洋の伝承へぴったり対応する話が提供され、イコンはもはや描かれたのでなく布の上に印写されたものとなりました。944年ビザンティン帝国皇帝ロマノスがエデッサからコンスタンチノプールへ取り戻そうとしていたのは、ちょうどこのような布に印写された肖像画(マンディリオン、もしくはハンカチーフ)でした。ダマスカスのヨハネの父、マンスールの息子セルギウスもまたアブド・アル-マリク当局の高級官僚で、ミカエルの年代記によれば(これもディオニシウスにさかのぼります)彼はアブド・アル-マリクの前でアタナシウスを着服で訴え、彼と言い争ったことがあるそうです。カリフはアタナシウスに出頭を命じ、「われわれはこの富の全てが一人のキリスト教徒に属するのはよくないと考える。したがって、その一部をわれわれに進上し、一部を自分のものとして所有すること。」と単に所見を述べました。アタナシウスはこの指示をそのとおり受けましたが、(ミカエルのコメントによると)「彼に残されたものはそれでも十分すぎるほどでした」。
次に私達が肖像について聞くのは、「イコン」としてはっきり言及されているのですが、723年にエデッサで描かれた王党派の写本への奥付の中です。これが書かれたのは大主教ヨハネの時代であることが記述から知れます。その後王党派聖職者のさまざまな名が続けられ、その中の一人が「ヤンナイ、司祭にして我等の主のイコンの聖堂の僧院長」と記述されています。この「イコン」の語は布の肖像とも木のものともとれます。おおよそ同時代のダマスカスのヨハネの中での経緯からすると、前者と考えるほうが妥当でしょう。
典礼写本「エデッサ人の伝承によるシリア唱和(‘enyone)とギリシャカノン」は、描かれたイコンが布の肖像に変遷してゆく明証となっています。なぜなら、四旬節の最初の日曜日にアブガル王の特別記念祈祷「祝祭への入場」を収録しており、夕べの祈りに使用される節の一つに、覆い(veil)上のものとしての肖像の具体的な言及があるからです。
神よ、あなたです、真っ先にあなたの福音を信じた、アブガル王の病のため、あなたの弟子を通し、癒しを与えたのは。
神よ、あなたはアブガルの手紙を喜びと共に受け取り、彼の要望通り、あなたの返答で彼を喜ばせました。
神よ、あなたはアブガル王にあなたの手紙の中で約束されました。「あなたの都市は祝福され、その住民も祝福されよう」と。
神よ、あなたはあなたの肖像を覆いによってアブガル王に送られました。それが彼の望んでいたことだったからです。
エデッサはあなたの名を讃えあなたの神聖に賛美をささげます。王キリスト、あなたの肖像を通してあなたは喜びを与えられたからです。
同様の布上のキリスト肖像はマンディリオンもしくは聖顔布としてギリシャ語資料にも述べられており、そのようなキリスト教圏での名聞から、ビザンティン皇帝ロマノス1世はこれを手に入れようとしました。943年、彼はこれを達成するためにエデッサを包囲する軍隊を送る局面にいました。さまざまな交渉の後イスラム教徒当局との取引が成立しました。つまり、捕虜200人と12,000銀貨と引き換えに肖像画が引き渡されるというものでした。キリスト教徒住民にこの貴重な聖遺物を進んで渡したがる人がいなかったことは驚くべきことではありませんが、彼らの上に圧力が加えられ、最終的にビザンティンへ1つではなく3つの肖像が引き渡されました!2つの、明らかに複製と彼らが識別できたものは返され、他のものは護送され、944年8月15日、盛大な祝賀の中コンスタンチノプールに到着しました。
このような貴重な聖遺物のビザンティン帝国首都への到着が大評判となったことは、残存するギリシャ語記述から集約出来ます。これによれば、印写された布はイコンに似せ木板の上に伸ばされました。エデッサのマンディリオンの描写はしかし、支えられ弛んだ布切れを表示しています。それらのうち最も初期の例は、シナイの聖カトリーナ修道院の10世紀のイコンにあります。マンディリオンはすぐに人気の題材となり、数々の複製がビザンティン世界中で作られました。
マンディリオン自体は、十字軍によって都市が不名誉にも略奪され、その数多くの尊い聖遺物が散り散りにされた、1204年までコンスタンチノプールにありました。マンディリオン自体がどうなったのかはわかりませんが、シリア語新約聖書初の印刷版(1555年)でヨハナン・ウィドマンステッターを補佐したマルディンのムシェはそれをローマで見たと主張しています。「私は自分の目で私達の主からアブガルへ送られたマンディーリを見た・・・ローマの使徒ペトロとパウロの教会で」。他によれば、マンディリオンはパリのサント・シャペルに行き着き、結局フランス革命の犠牲になりました。今日まで残存しているとの考えもあり、一説にはジェノバの聖バーソロミュー教会に保全されている古いイコンだとされています。他にも有名なトリノ聖骸布に違いないと主張する人たちもいますが、これはまずありえないでしょう。トリノ聖骸布の存在の最初の記録と1204年の間には大きく問題の多い隔たりがあるのみならず、(この理論に寄与し得ない)実際上の問題があります。つまり、文学的仮説から始まった(5世紀)肖像が、描かれた肖像として物質化し(6世紀)、それが印写された布に変質させられて(8世紀)、今や再び変質し、完全な聖骸布になったとは!
(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p122-125)
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