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3.バル・ダイサン(Bar Daysan)222年没
バル・ダイサンはA.D.154年7月1日,異教徒としてエデッサに生まれ、その王マヌ8世の城で育った。マヌの子アブガルと一緒に、彼は最高水準の学問と教養を授かった。彼はキリスト教を受け入れ、輔祭に叙任され、おそらくは司祭にもなったようである。しかし、彼がまだそこから解放されていなかった誤った異教の教義に関与し始めたため、教会から破門された。彼はA.D.222年に没した。
バル・ダイサンは卓越した雄弁な著作家であり哲学者であった。彼は数多くの著書をシリア語で執筆したが、彼が彼の弟子フィリップに口述したもので、その中で彼が運命と宿命について論じている、諸国の慣習と題した小論の他、残存しているものはない。失われた彼の著作の中には、アラブ人の主教、ゲワルゲウスによって言及された天文学に関する論文や、ダビデの詩篇風に書かれた150篇の詩歌があった。これらの詩歌に言及した聖エフライムは、バル・ダイサンはこれらの中に彼の非正統な教理と教えを組み入れ、彼の作曲による魅力的な調べでエデッサの若者たちを唱導している、と述べている。彼はまた、多くの教養ある富裕層を取り込みダイサニイヤとして知られる分派を設立した。聖エフライムはA.D.363年にエデッサに移住するとすぐに、類似した韻律と旋律をもつ詩歌の創作により、それらの歌を抑えるよう努めた。さらに、エデッサの主教ラブラ(435年没)が、彼(バル・ダイサン)の支持者らのほとんどを正統信仰へと改宗し得た。彼らのうちごく少数はそのままであったが、多くの国々、特にペルシャへと散らされた。この分派の残存者は10世紀まで続いた。
現代の著作家らの中には、バル・ダイサンをシリア詩歌の父でありその韻律の考案者であると主張する者らがいるが、そうではない。シリア詩歌はバル・ダイサンの時代よりずっと以前から存在していた。バル・ダイサンは、しかし、その韻律を展開し多様化した。彼には、詩文の技量でその父をしのいだ、ハルモニウスという息子があったといわれている。この説は、中世の歴史家らに異論なく受け入れられていたようである。事実、ソゾミンとテオドレトは、ハルモニウスがエデッサの若者らのため詩歌を創作した人物であり、聖エフライムに対立されたのは彼であったと主張することで、さらに歩を進めている。しかしながら、現存する聖エフライムの詩歌は、バル・ダイサンに言及しているのであり、彼の息子にではない。バル・ダイサンのこれらの詩歌のうち5行だけが、7世紀の著作家テオドール・バル・クニにより執筆された本の中に残存している。
バル・ダイサンには、彼の著作をギリシャ語に翻訳した、数人の仲間らや弟子らがあった。これらの著作のすべてもしくは一部は、彼の前半生における福音宣教への没我ゆえにバル・ダイサンをその著書、教会史の中で賞賛した、カイサリアのエウセビオスに達した。エウセビオスはまた、異端マルキオン派に反対する対話集と、エピファニウスとジェロームによっても言及されている、幸運についての論文を彼に帰している。もっとも、この後者の論文は、現代の文学史家らの多くが主張するように、諸国の慣習と呼ばれる論文であるかもしれない。
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資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES
/ PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM
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