聖マルコ修道院の入り口
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聖マタイ修道院 ― ダイロ・ド・モル・マタイ(モスル、イラク)


Source: Brock, et. al. The Hidden Pearl, 2001.

 モスル(ニネベ)の35km北東、アルファフ山上に位置して、 モル・マタイ修道院(デイル・マル・マッタとしてアラビア語で知られる)は、4世紀に設立されました。聖なる書物の伝承によれば、マタイという一人の聖者が、この山に住んでいました。ある日、地方の王子、ベヘナムは、山へ狩猟に行きこの聖者に出会いました。彼の教えに感銘したベヘナムは、母親のところに戻ると、彼に病気を患っていた彼の姉妹サラをつれ、聖者のところへ行かせてもらえるように説得しました。彼女は、聖者によって癒されました。この奇跡の後、 サラとベヘナムは、聖者によって洗礼を受けました。この知らせを聞くや否や、彼らの父である王は怒って、彼らを処刑するよう命じました。王は、すると病に倒れました。ベヘナムは夢で彼の母に現れて、聖マタイを招致するように彼女に言いました。彼女がそのようにすると、聖者は王を癒しました。王は謝意を示すために、山に修道院を建設しました。

 修道院は、5世紀、動乱のキリスト論争の間、その影響を被りました。総主教長老ミカエル(大ミカエル、シリア人ミカエルとしても知られる)とバル・ヘブラエウスの年代記は5世紀末までには修道院での生活が回復されたことを記録しています。当修道院での修道生活の形式は様々で、アビール『独住修士』もいればハベエシェ『隠修士』も居り、イヒドイェ『隠者』となる者もいれば、より共同社会的な生活を好む者もいました。

 修道院には、その初期から主教管区を有していたようです。 数々の東方マフリアン管区(すなわちユーフラテス東部シリア正教会)による教会会議が開かれたのもこの修道院でした。この修道院の主教職は、とりわけ7世紀以降、様々な面において強力であり、在住の主教がシリア正教の東方マフリアンと事実上同格となるほどその権威を競ったようであり、それぞれが東部のシリア正教会の半分ずつを統治していました。869年に総主教ヨハネス3世は、アンティオキア総主教職との関係でマフリアン職の従属的位置づけを再確認することとなる教会会議を催しました。これに加え、その教会会議の最初の教会法はモル・マタイ修道院の主教が東方マフリアンに従属するものであることを明らかにしました。総主教長老ミカエルも1174年にこの関係を再確認しています。

 当修道院は、その素晴らしい図書館で知られていました。9世紀に溯ると、ダウド・バル・パウロス・ベツ・ラバン(837没)がある主教へ、「私の祖父は問答形式でネストリウス派(おそらく間違いであるが原文どおり)に対する2冊の本と、もう一方のネストリウス派によって提出された60の質問に答えている3冊の本を執筆しましたが、私が思うにはこれらの書物はモル・マタイ修道院にあります」と手紙を書いています。あるシリア語写本(ベルリンNo327)の奥付でも、1298年には、その図書館は35冊以上あるバル・へブラエウスの著作の全てを有していたことが記述されています。1171年に、クルド人が修道院を襲い写本の多くが損なわれましたが、被害を逃れたいくらかの書物は修道士らによりモスルへ運ばれました。1369年のクルド人による再度の修道院へ襲撃は、さらに多くの写本を損ないました。今日、この修道院からの写本は、英国図書館、ケンブリッジ、そしてベルリンで見出すことができます。

 モル・マタイ修道院は、たびたびマフリアンの座として用いられていました。バル・ヘブラエウスは、彼のマフリアン職の最初の7年をここで過ごしました。

 当修道院は、マルバラ(インド)の教会と歴史的なつながりを有しています。1663年に、ヤルドという名の修道士がマフリアンに叙任され、当修道院に座しました。1683年、マルバラのトーマス2世は、総主教に主教と4人の教師らを派遣することを依頼する手紙を書きました。翌年、総主教がマルディンの教会会議で問題を討議したところ、ヤルドがマフリアン職を辞しインド宣教へ行くことを申し出ました。彼は、困難な旅の後、マラバルに到着した数日の後に亡くなり、彼の亡骸はケララのコサマンガラムにあるマル・トマン教会に埋葬されました。
19世紀前半の間、クルド人が修道院を何度も急襲したために、修道院は12年間打ち捨てられました。その世紀の後半、カンタベリー大主教代理オズワルド・パリーが当修道院を訪問しました。彼は、修道院での生活を次のように記述しています。


 丘陵地の尾根を越える馬での道のりは厳しく…そのほとんど直角の正面に、修道院が岩壁に抗ってツバメの巣のようにへばりつき建てられている、ジェベル・マクルブの懐にある村、マレーへ。 この村から、どうしたところでその岩を登る方法などほとんどありえないように思われましたし、なんら見留め得る[道らしき]ものもありませんでした。私たちが小道にたどり着いたとき、それは古い中国皿の上に、むしろ中腹のパゴダに導き登るものの様相を呈していました。私たちが頂に近づいた時...2人の修道士が高い岩壁越しに、直下に居た―彼らは私たちの頭の上に石を落とし得たでしょう―私たちを見下ろしました…修道院には2人の修道士が居り、一人は老人でやや難聴であり、その人は大部分の彼の人生をミドヒアトで過ごし、彼の余生をマル・マタイで過ごすために来られた方でした。もう一人はラバンに叙任され二年にしかならない青年でしたが、教養のある信用できる人物で、かなりの権能を与えられており、主教がそこにいるときでさえ、その場所の全ての管理を行っていました。
 
 この修道士は建物の最上階にある心地よい客室に私たちを導き、そこで水とブドウが運ばれて来ました。彼が慣習であるコーヒーを準備するために姿を消した間に...ブドウとコーヒーで元気付けられた私は、それから、修道院とその周辺を見に、若い方の修道士と出かけました。そこは実に不思議な場所でした。ほとんど進入路がなく、数本の、主にイチジクとアプリコットの木と、修道院の400匹の羊の群れを養うには十分な草地が岩の間のあちらこちらにありました。隠修士だけがこのような場所を選ぶことが出来るのですが、空気は栄光に満ちており、モスルでは耐え難い夏でも、マルディンあたりの丘の上と同じくらいここは快適かもしれません…

 1830年ごろ、この場所はクルド族のパシャ、ルワンドズにより略奪され、最近になってようやく復旧されました...
 教会は大きく質素な建物で、偉大なバル・へブラエウスの墓があることが主な関心を引きます。シリア人の全ての修道院は、彼の数多い作品の一部の写本をいくらか有しています…彼は教 会のベト・カディショ[訳者注:聖域の意]の中に、彼の兄弟バルソウムと共に埋められ横たわっており、彼らの上には[次の]銘が刻まれています:『これはマル・グレゴリウス・ヨハネ、そして彼の兄弟マル・バルソウム、ブナイ[訳者注:バル(子)の複数形]エブラエウスの墓である。エルペプ山』

 教会の近くに、シリア人の主教の多数が葬られているもう一つの建物がありました。そして、修道院の真下の洞窟では、ラバンがマル・ベヘナムの生きた場所を指し示しました。

 月の明るい、輝かしい夜でした。しかし、稲妻は地平線に沿って雨の前兆を示していました...我々の滞在の短さを何度も心残りにしながら、修道士らは我々に別れを告げました...山道を下っていくのは、登るよりもさらに険しい仕事でした。

 1841年に修道院に立ち寄ったホレイショー・サウスゲートは、修道院が「無人であったが、かつてはシリア人の総主教(おそらくまちがいであるが原文どおり)の座であり、現在も名目上マフリアンの居住地である」(156ページ)と記録しています。

 この修道院で開催された今世紀最初の教会会議は、1930年に総主教エリアスIII世が座長を務め、彼により召集されました。この教会会議において、すべての教会が日曜学校を開くことが勧められました。典礼の間のオルガンの使用が許可されました。また若い女性がコーラスに参加することが奨励され、特に女の子のために学校を開くことが、主教により奨励されました。暦に関して、教会会議は東方のユリウス暦のままとすることを決定しましたが、アメリカの教会がグレゴリオ暦を使うことについては復活祭以外では許しました。また、この教会会議で修道持参金の慣習が禁じられました。修道院に適用される法令の編纂が、この教会会議によって承認されました。

 当修道院のベト・カディシェには、6人のマフリアンと多くの主教らが埋葬されており、その中にはモル・マタイ、モル・ザッカ、モル・アブラハム、バル・ヘブラエウスがいます。修道院には、50以上の部屋、3つの集会室、そして教会があります。修道院の左には自然の山の湧き水がその洞窟の天井から滴っている、大きな洞窟があります。
当修道院は独自の大主教管区の座となっています。現在の主教は、以前エルサレムの主教であったモル・ディオスコロス・ルカ・シャアヤです。



Source: Brock, et. al. The Hidden Pearl, 2001.

主な文献:

Ignatius Jacob III, dafaqaat al-tiib fii taariikh maar matta al-`ajiib (Damascus, 1961).

その他の文献:

H. Southgate, Narrative of a Visit to the Syrian [Jacobite] Church of Mesopotamia; with Statements and Reflections upon the present state of Christianity in Turkey and the Character and Prospects of the Eastern Churches (New York: Dana and Company, 381 Broadway, 1856).

Oswald Parry, Six months in a Syrian Monastery, Being a Record of the Visit to the Head Quarters of the Syrian Church in Mesopotamia, with Some Account of the Yazidis or Devil Worshippers of Mosul and el Jilwah, Their Sacred Book (London, 1895), Ch. 19.

(英語原文はこちら:http://sor.cua.edu/ChMon/MosulDMattay/index.html

 


   
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