■ シリア人聖エフライム(St.Ephraim the Syrian)373年没
聖エフライムは疑問の余地無くシリア語の大家であり、その詩はシリア人の中で卓抜しています。彼には、創造性、詩趣性、そしてわずかな言葉で多くの意味を表現する能力という天与の才がありました。彼の文体は確固としていて力強く流暢かつ雄弁です。他者がほとんど比肩し得ない詩歌のうちに、彼は新しい教理を実践しました。彼は話題の豊富さ、想像力の豊かさ、飾らない自然さにおいて顕著です。これらすべてにおいて彼は成功しています。彼は読者に篤信と従順の最も高い圏域を直感させ賛美の念を生じさせる、崇高な意味内容と高潔な思想をこれらの詩歌の内に組み入れました。聖エフライムは誠実と敬虔な熱情そのもののような人でした。彼の心は神の愛に全く支配されていました。それがゆえに彼は「シリア人の預言者」「シリア人の太陽」「聖霊の竪琴」「知恵の所持者」と描写されました。さらに、キリスト教世界は彼の指導力を彼の生前から公言し、彼の歌を唱歌し、それらを通して神を賛美しました。
聖エフライムは4世紀の早いうちにキリスト教徒の家に生まれました(彼は異教徒として生まれ若くしてキリスト教に改宗したとする記述に反しますが)。彼は高貴な性格に育ちました。青年期の早いうちに彼は世を捨て高潔かつ聖なることで知られたニシビスの主教聖ヤコブに付き添いました。正義に加え、エフライムはシリア文学独特の事柄の多くを学びました。彼は修道会に入り、輔祭に叙任され、彼の師により設立されたニシビスの学校で38年間教えました。彼はまたその師の後任であった主教バボイ、ワルガシュ、イブラヒムの下で働き、ニシビスの歌として知られる彼の歌の一部を作成しました。359年までには、彼は広く名声を得ていました。363年ペルシャ侵攻の結果、彼は故国を去りエデッサに移り、苦行者たちにより彼が喜んで迎えられたその地の聖なる山に落ち着きました。彼はエデッサの学校を拡大し、彼の寄与と知識の結果、この学校は広く知られるようになりました。彼がその知識の宝を開き、旧約および新約聖書を解説したのはこの学校においてのことでした。さらに彼は数多くの俊逸な詩と聖歌の傑作を書きました。彼の詩歌は雄弁術の模範となり彼の下に多数が学びました。
彼は質素な禁欲の人で分別があり思慮深く穏やかで独創的でした。彼は正統教義の要塞を見張りつつ誤った異端者の毒麦を燃やす燃え盛る火、明晰な師、誠実な闘士でした。彼は70歳に近づいた373年6月9日に亡くなりました。彼の亡骸の上には下修道院として知られるエデッサ近郊の修道院が建てられました。教会はレントの最初の安息日(Sabbath)を彼の記念日としています。
聖エフライムの散文のうち、修道士セベルス(861年没)の所蔵物の中に散在していた、創世記、出エジプト記の一部、その他の聖典の書の断片的な注解書が今に伝えられています。これらの彼の注釈はペシッタ訳に基づいています。彼の著作はアルメニア語訳でも残っており、福音のディアテッサロン版を基にした注解書、使徒パウロの書簡注解書(イエス・ダド・アル-ムラルワジによる聖書解釈の中に見出せる数行以外のもの)、そして聖書解釈を含む講話がいくつかあります。私達は意見の書と呼ばれる彼の書からの抜節である、異端者ハイパティウスとドムナスに対する二つの講話、至高の愛と嘆願に関しての2つの論文、山地に住む修道士たちへ宛てた書簡を読んだことがあります。彼はまた使徒たちの物語を書きました。そのうち使徒聖ペトロの物語は今に伝えられ出版されています。
しかしながら、聖エフライムの著作の中で最も顕著なものは、彼のミマル(彼に帰される7音節韻律で構成される韻文訓戒)とマドラッシュ(韻文歌)です。ミマルとマドラシュはすべて信仰課題を扱っていますが、たとえば主キリストの神聖、主の人間性、教え、主の教会、使徒、殉教者、聖書解釈、祈り、断食、慈善、賛美などです。復活、死者のための祈り、水不足など修道士らしいマドラシュもあります。処女性、教会の秘蹟、そして主の御降誕を描写した歌もあります。分けてももっとも美しい歌は、心にその魅力を、精神にその高尚な神学的真実を刻みつける、アルファベットの歌です。彼はまた御公現の祝日、復活祭、復活、使徒の召命、カトリック(普遍的)教会の属性、聖処女とその他の聖人に関する歌も作成しました。彼はまたイブラヒム・アル-カイドニやジュリアン翁といった彼と同時代の主教や苦行者に賛辞を呈しています。彼は異端者バル・ダイサンと背教者ユリアノスへの反駁を遺憾のうちに記しています。彼の作った詩の数(失われたものもあります)はわかりません。バル・ヘブライオスは彼のフドエ(ノモカノン)の中で、聖イサクのものと合わせて214編の聖エフライムによる詩に言及していますが、この数値は聖職者による朗読が義務付けられていたミマルの精選集一つしか含んでいません。これらのミマルのうち知られているものは、御公現の祝日に関するミマル15編、棕櫚の祝日1編、過越15編、主の受難4編、復活と復活祭の日曜日の聖体拝領に関するもの2編、白衣の主日に関するもの1編です。彼はまた、祝福された処女の誕生、使徒聖アンドレ、カルカーもしくはキリタイトの国の改宗に関し2編、ヨブに関し3編、聖セルギウスとバッカスとデメテに関し2編、殉教者に関し12編、主教、司祭、助祭、完全な修道士たち、子供たち、その他の人々の死に関し5編、人の性質に関し7編を書きました。そのほかの主題には、賛美のための独居、寄留、次の世、時の終わり、拝金者の謙遜と愛などがあります。彼は、哀悼と次の世に関し11編、嘆願、知恵、慰め、信仰、知識と悔い改めに関し7編、イザヤの言葉「罪びとは取り去られ、彼は主の栄光を見ることがない」に関し1編、食事の祝福に関し10編、背教者ジュリアンに関し4編、多様な主題に関し12編を書いています。大主教ラハマニはこれらのミマル2巻を出版しました。第一巻は31のミマルとその他のミマルの断片からなっており、食事の祝福、ニコメディアの陥落、心の純潔、悔い改め、神の私たちへの配慮などに関するものです。そのほか、不寝番、悔悟、不正、苦行者、正しい人ヨブ、バル・ダイサン反駁、ニシビスの攻囲、人々を罪へ誘うサタンなどが話題となっています。第二巻は彼が水不足に関し作成した複数のミマルが収められています。彼はまた、彼自身に向けた壮大な5音節のミマルも詩作し、その冒頭は「なんと頻繁に私は飢えたことか」で始まります。彼はまた、有名な誓約文も作成しましたが、原作とは関係のない多くの挿入がなされることとなります。彼は韻律の整った嘆願文も作成しています。
以下は彼の知られているミマルです。
信仰と信仰を疑う人々に対するミマル87編、葬儀に関し85編、告解の勧めに関し76編、地上の楽園に関し15編、処女性と主の神秘に関し51編・・・これはもっとも啓発的な曲です、350年から363年の間に作成されたニシビスのミマルとして知られる77編・・・そのうち60編が残っています(ビケにより出版されています)。これらのミマルのうち20はニシビスで作成され、350年の攻囲とペルシャ戦争(359-363)の間にこの都市がこうむった災難についての記述が収容されています。これらには先に述べられたニシビスの主教への賛辞も収容されています。残りのミマルはエデッサで作成されたもので、エデッサの教会での出来事の記録が収容されているものが5編、ハランの町の偶像崇拝とその主教ペテス関するものが4編とアナゼテの町に関するものが数編あります。残りは主の受難とその復活と死者の復活に関するものです。これらエデッサで作成されたミマルのうち、15編は主の誕生に関するもの、15編は神の顕現、15編はパン種の入っていないパン、52編は教会、56編は異端反駁、17編はイブラヒム・アル-カイドゥニ、24編はジュリアン・ソボ(翁)、20編は殉教者、15編は説教、18編は雑多な主題に関するものです。
もっとも古い歌唱集は、彼の作成したマドラッシュ(韻文詩歌)の音階を500と述べています。しかしながら、これらの歌唱集のうち最大のものでも156音階、大方のものは45音階程度しか含んでいません(これらは聖エフライムの内容と形式に似せて作成されたほかの音階と一緒にされています)。
この博士はまたショハレとインヤンスとして知られる歌の部分も作成し、先に述べたようにタッカシェフトス(嘆願聖歌)とカティスマタのいくつかも彼に帰されています。マブグのフィロクセノスは彼による二冊の書を引用しましたが、一つ目はユダヤ教徒と異教徒反駁のファンキー(書)と彼が呼ぶものです(シールト年代記著者によっても言及されています)。二つ目はニシビスの殉教者のファンキー(書)で、主に信仰、教会、パン種を入れないパンとニシビスのファンキーといった、聖エフライムのマドラシュの選集を収容しています(これはティクリットのアントンにより引用されました)。
聖エフライムに帰される書に、宝の洞窟と呼ばれる、アダムとイブがエデンの園を追放されてからの物語とイスラエル民族の系譜を収容したものがあります。この本は6世紀に執筆されたものです。同様に彼に帰されているものに、ヤコブの子ヨセフに関する秀逸な12旋律の賛辞があります。これは、バル・シュシャンの見解によればバルシュの主教バライかイサクの作で、何人かの著述家が考えるような、エデッサの学校の教師達の作ではありません。読者はまた、そのほとんどが聖エフライムに帰される約300のミマルを、ブトルス(ペトロ)ムバラクとステファノ・アウワド(アッセマニ)の二人の修道士により、1737年と1743年にラテン語で出版された3巻の中に見出すでしょう。これらは、実のところ、彼の弟子たちの作品か、イサク、サルジのヤコブ、ナルサイ、もしくはその他の人の作品です。1882年から1902年の間にトーマス・ラミーがマリネスで、聖エフライムのミマルと聖歌を収容した4巻を出版しました。これらのいくつかはオックスフォードとライプチヒでも出版されました。しかし現代学者たちは、聖エフライムの作品のより正確でより良い版を切望しています。
51編の聖エフライムの論文は11世紀にギリシャ語からアラビア語へ翻訳され今に伝わっています。これらの論文のシリア語原文は失われてしまいました。聖エフライムの聖書注解とその他の彼の著作は彼の生前か彼の死後10年以内にギリシャ語に翻訳されました。これらの翻訳は、壮大な訓戒の中で聖エフライムに賛辞を呈したニッサのグレゴリウスにも読まれました。彼の著作の中にはアルメニア語、コプト語、エチオピア語、ラテン語に翻訳されたものもあります。
現代の評論家たちの中には、聖エフライムは神学者というより道徳的著述家であり説教者であったとの意見を持つ人たちがいます。これは事実であって、彼のミマルと詩歌のうちには、異端者により屈曲させられたものの中にさえ、教義的研究はほとんどまったく見られません。しかしながら、彼のミマルが名声を得、人気を博したのは彼の神聖さのためです。読者をエフライムへと魅了させるものは彼の熱烈な精神と彼の詩の中の寓意物語であるとする評論家たちもいます。彼の詩歌に収容されるこれらの勇壮で芸術的な描写と象徴と幅広い想像力は、ギリシャやラテンの詩歌にはなじみのない様式で東洋詩歌に特徴的です。ところがこれらの評論家らは聖エフライムの詩歌は創造性、高尚な思想、熱情に乏しいといいます。
他の評論家たちは、それよりは公正に、彼(聖エフライム)の作品は民衆や修道士を意識して書かれたため神学的理論に深く入り込んでいないのだと言います。しかし彼は心の中核に浸透する熱意の火花と熱情の焔を道徳的講話の中に組み込みました。彼の書いたもののすべては、彼が最大限長々と書いた(話題)でさえ、彼のもっとも近しい読者たちの目には超一流の修辞の象徴でした―書き手とはその環境の反映なのです。
聖エフライムには創造性や高尚な思想、熱情に乏しいという主張は公正ではありません。音感のある人(学者)たちには満場一致で反駁されるものです。また、彼はその冗長を非難されるべきではありません。これはシリア人その他の古代作家らの特徴なのです。この体系が私たちの現代的な感覚に相容れないことは疑いありません。それにもかかわらず、聖エフライムについて少なくともいえることは、彼の詩歌の包含性は精神的努力を要求することがあるということです。アサルブのヨハネ(735年没)はエデッサのヤコブに聖エフライムの詩歌についての説明を求める手紙を書きました。もし彼に近い時代に生きた聡明な学者らが彼の詩を解釈し不明瞭な点を解きほぐしていたなら、それはどんなに価値あることだったでしょう。
資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES
/ PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM、p78-80
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