聖エフライム
シリア人学者と著作家の伝記
   この章はTHE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES からの抜粋訳です。

 

トップページへ

 

 

 


バル・ヘブライオスとして知られるメリテネの聖グレゴリウス・アブ・アル-ファラジ東方教会マフリアン(Mar Gregorius Abu al-Faraj of Melitene, maphrian of the East, knows as Bar Hebraeus )1286没

 バル・ヘブライオスとして知られ、メリテネのツマ(トーマス)の息子の助祭タジ・アル-ディン・アアロン医師の息子で、「ジャマル・アル-ディン」の異名を持つアブ・アル-ファラジは、とても有名な知識人であり、東方そして世界の偉大な哲学者かつ神学者の一人です。確かに彼はシリア民族の天空で最も光り輝いた星であり、彼の博学な知識はなおさら彼を唯一無比としています。
 彼は1226年メリテネで高貴なクリスチャンの家庭に生まれました。私たちが執筆した記事の中で、私達は、イブリ(ヘブライオス)という語は彼がユダヤ人の血統で彼の父親がキリスト教に改宗したのだというオリエンタリストたちの主張を反駁しました。実際彼がヘブライオスと呼ばれた理由は彼の先祖の一人か彼自身がユーフラテス川を渡る間に生まれたからです。彼の通称について彼が詠んだ詩文の一行はこの十分な証拠でしょう。

 もし私たちの主(キリスト)が彼自身サマリア人と呼んだなら、
 人々があなたをバル・ヘブライオス(ヘブライの子)と呼んでも恥じるまい。
 このあて名の由来はユーフラテス川
 不名誉な教義でもヘブライ語でもない

 ですから根拠なくこの見解を抱いている人々の伝統的な過ちは正されるべきです。
 バル・ヘブライオスはシリア語、教会儀式、聖典、それらに関する教会教父たちの注解書を彼の国の熟達した師達から学びました。彼はまた彼の父の下に医学を学びました。1243年末、彼の国の内紛のため、彼の父は家族を連れアンティオキアに去りました。アブ・アル-ファラジはこの機会を得て他の彼が見出した教師たちの下に出来る限りの学問を学びました。1244年彼は世の事柄に幻滅し修道僧となり篤信で知られました。彼はトリポリで師ネストリアンのヤコブの下、医学、修辞学、論理学の研究を進めました。彼が名声を得たころ、総主教イグナチウス3世は彼を気に入り司祭に、そして1246年にはジュバスの主教に任命しグレゴリウスと呼びました。その後彼はラクビンそしてそれからアレッポへ転任され、そこで彼の哲学的神学的研究を完成しアラビア語を習得します。1264年1月19日彼は東方教会マフリアンの地位に上げられます。彼は続く22年と数ヶ月を、信者たちを治め聖俗両分野で教会に好ましい状況が得られるよう交渉しつつ、ニネベと聖マタイ修道院、バクダッド、モスル、マラガ、タブリズの間を移動しながら費やしました。彼はその知識、能力、人民と物事の取り扱いの巧みさゆえにモンゴルの王たちに厚遇されました。彼は信仰心が厚く資質のある修道士たちを選び12人を主教に任命しました。彼は2つの教会、2つの修道院、2つの主教たちのための教区の家、1つの宿舎を建てました。それにもかかわらず、彼は学問と当時の知識人たちとの議論に加わることを止めませんでした。彼が行くどこででも彼は教養人たちの注目の的となりました。マラガの図書館では彼はアラビア語の哲学注解書を学びました。彼はイブン・シーナ(アビセンナ)の哲学・医学著作のすべてを読み、アリストテレスの著作に続く根拠として用いました。これらは彼自身の著作に大きな影響をもたらしています。それから彼はペルシャ語を徹底的に学び、時間を見つけては禁欲主義の様々な本を研究しました。神の神意により彼は1286年7月30日60歳にしてマラガで亡くなるまで成すことすべてに成功しました。キリスト教派の全てが彼の死に呆然となり彼の死去を嘆きました。彼の聖なる体は聖マタイ修道院に運搬され、彼の墓は今でも崇敬の対象となっています。彼は「知恵の海」「東と西の光」「知識人の第一人者」「最も偉大な賢人」「聖なる教父」「神聖な知恵を有する最高の知識人」と描写されました。
 以下は彼の著作です:
1. Ausar Roze(秘密の蔵)は重要な大作で新旧両聖書の文献学的、逐語的、霊的注釈書です。彼は聖書を十分学んだ後これを執筆しましたが、その際、ペシッタ訳とオリゲネス、ヘラクリウス、コプト、アルメニアンそしてネストリウス訳に用いられていたセプツアジント訳を、聖典のカルカフタ音読とあわせて、基本にしています。彼はセプツアジント訳をペシッタ訳より好んだとも述べています。彼の注釈書は外典知恵の書、マカバイ記を含む旧約聖書と黙示録を除く新約聖書をすべてカバーしています。彼の注解所の中で、彼は権威者として、ヒッポリュトス、アフリカヌス、オリゲネス、ユリウス、エウセビオス、アタナシウス、聖エフライム、バシル、グレゴリウス・ナジアンゼン、ニッサのグレゴリウス、エピファニウス、クリュソストモス、キリル、ヘシチウス、偽アレオパゴス、サルジのヤコブ、マブグのフィロクセノス、アンティオキアのセヴェルス、サラのダニエル、エデッサのヤコブ、アラブの主教グレゴリウスを引用しています。ディディモ、マフェスティアのテオドレス、ダビデ・バル・パウロ(聖マタイによる福音書の注解書の中で)、ミカエル総主教については一度だけ言及しています。彼は、教父たちの考えを批評しながら独自の思考を編み出しました。この本は1271年12月15日に完成しました。著者により執筆された原本から筆写された1354年の第二写本で、私が信じるところ現在ロンドンにあるものでは、彼はこの本を1277年に完成したと言明しています。しかしながら、最初の日付がより正確です。アメリカ人の学者マルチン・スプレングリングは言っています。「バル・ヘブライオスはシリア文学の歴史のすべてにおいて最も偉大な著述家であり、間違いなく彼の時代で最高の知識人でした。彼の秘密の蔵の中で彼は聖典についての彼の知識のすべてを注いでいます。神学者、歴史家、人類学者、哲学者はこの13世紀の卓越した人物により執筆された包括的な仕事の中に、その人の研究への富を見出すでしょう。」
 このすばらしい書には20以上の写本があり、その最も古いものは著者存命中の1275年に筆写されたものです。そのほかの写本は、ベルリンに1298年に筆写されたものがあり、私たちの図書館には14世紀初頭に筆写されたと考えられています。オリエンタリストのスプレングリングとグラハムはこれらの写本の写真コピーを集め、1931年サムエル記下で終わる393ページの第一巻を出版しました。

2. ムノラス・カディシェ(至聖所の灯火)は非常に深遠な大判400ページにわたる大作です。この中で彼は細部にわたり陰陽学神学を扱っていますが、聖典の証言、キリスト教徒権威者ら、自然科学(アリストテレスとガレンの著作を引用)により根拠づけされています。彼はキリスト教の真実を擁護し、人を誤らせるものたちの偽りを反駁し、ソフィストたちの議論を覆し、アリストテレスの思想が正統教義に反するときはこれに異議を唱えました。彼はこの本を12の部分もしくは項目に次のように分けています:知識、神の存在、世界の創造、神の三位一体性、受肉の神秘、天使、悪魔、人間の魂、司祭職、神意と運命、復活、パラダイス。彼は神学学生たちのために義務的にこれを作成しました。1909年私たちは、著者の弟子バルツーリの助祭ヨハンナ(ヨハネ)・サルの手による1275年に完成された、この本の古い写本をジャジラット・イブン・ウマルの主教宅で見つけました。この写本は第一次世界大戦の惨事の最中に失われました。この本の古い写本は10冊あります。1930年ジェーン・バッカスは最初の2項目をフランス語に翻訳し出版しました。1661年ダマスカスの主教ヨハンナ・グライルの息子助祭セルギウスはこれをアラビア語に翻訳しました。翻訳の質はまちまちでしたが。その後そのたくさんの写本が国々にいきわたりました。

3. クソボ・ド-ザルゲ(光線の書)は至聖所の灯火の概論で10の部分よりなっています。これらは以下のとおりです:6日間の創造、神学的学問、神の言葉の受肉、天使と悪霊、魂、司祭職もしくは叙任の祈祷、洗礼、塗油、正餐式、自由意志と神意と運命、二つの世の終わり(大きなものと小さなもの)、そして新しい世の始まりとパラダイス。彼が典拠としたのは、アタナシウス、エフライム、バシル、グレゴリウス・ナジアンゼン(神学者)、ニッサのグレゴリウス、エヴァグリオス、クリュソストモス、キリル、偽アレオパゴス、サルジのヤコブ、マブグのフィレクセノス、アンティオキアのセヴェルス、エデッサのヤコブ、モーセ・バル・キファらの博士たちでした。時々彼は私たちの主の二つの契約の書、ローマのクレミス、ミソディウス、グレゴリウス・トーマツルグス、ユリウス、ボスラのティトス、エピファヌス、テオピラス、プロクラス、ラス・アインのセルギウス、セヴェルス・サブカト、バル・サブトを引用しています。正統外からはモフュスティアのテオドロス、テオドレトス、バイサンのヨハネが引用されています。彼がもしこれらの二つの本の中で、アリストテレスから複写された医者に関する主題を詳細に扱うことを避けていたなら、彼はもっと良くなっていたでしょう。この本は小判で338ページからなっています。私たちの図書館には古い写本9冊と新しいもの1冊があります。アラビア語に翻訳されていますが旧式の翻訳家による貧弱なものです。

4. ヘワス・ヘクヘムト(知恵の乳脂)哲学(アリストテレス学全般)に関する書。この書は彼の最高傑作のひとつです。951ページをカバーする膨大な2巻からなります。第一巻は論理学に関し9書を収容しており、形而上学、カテゴリー論、解釈に関して、分析論前書、分析論後書、命題論、詭弁駁論、修辞学、詩学からなります。この巻は365ページからなります。巻末で彼は言明しています。「以上が詩学に関して、私たちの偉大な師である哲学者アリストテレスから私たちが見出し得るすべてです。私にはまだ存在するにもかかわらず欠けている部分があるように思われます。そうした部分はギリシャ語からもシリア語からもアラビア語からも翻訳されなかったか翻訳されても私たちまで届かなかったのでしょう。神の御心であるなら、そして私が十分長生きしたならこの技術に関して対比の調和、懸詞、比喩、類推など修辞の異なる技術をすべて扱い包括的な本を書くでしょう。」第二巻は物理学に関し2つのセクションからなります。一つ目のセクションは8書からなります:1)物理学は4部からなり、要素、形態、運動原理、変異条件、有限と無限、運動連続性と静止した第一運動体の無限性、要素も規模も無い無限など自然物体一般を扱っています。2)天体論は4部すなわち、天体と月下体、4元素、それらの性質、運動と固定、知恵の定義からなります。3) 世代と堕落は4部からなり、宇宙の状態、堕落、実在化の行程と消滅、絶対変化と変化の対象となる永遠体の数(absolute alterations and the number of the eternal bodies subject to alteration)を議論しています。4)鉱物の書は固体の状態、鉱物、山脈、泉、地の運動、宇宙の位置について議論しています。5) 気象学の書は4部からなり、4元素が合わさる前にそれに影響を与える条件と運動、またこれら元素への天体、流星、雲、雷、風、地震、海、山脈の影響を議論しています。6)植物の書は4部からなり生きた植物に関するものです。7)動物の書は6部からなり動物の性質と動物界の条件を論じています。8)魂の書は4部からなり、(特に人間の)魂についての知識、魂の能力、魂の動きについて論じています。彼はまた、そのほか医学、天文学、占星術、護符、錬金術などの論題を論じています。
 第二巻の第2セクションは5つの書になっており、8部構成の哲学、6部構成の神学または形而上学―この部分は理論課題を提供します―、続いて実践課題すなわち、3部構成のニコマコス論理学、経済学、3部構成の政治学が来ます。第2部の第3章では国家の特徴が論じられています。この巻は233章586ページからなります。
 第一巻については、古い写本が2冊ありますが、一つはフローレンスにごく若干欠けたものが、もう一つはオックスフォードにあります。新しい写本は4冊、一つはカンダナツ(マラバル)、二つ目はアレッポ、三つ目はサイイダ修道院、四つ目はビルミングハムにあります。第二巻についても、2つの古い写本があり:一つは著者在命中に完成されたものが私たちの図書館にあります。これは著者の控えから複写するため最初にコピーされたもので、1285年末か1286年初頭に完成されたものです。二つめのコピーはアミドのカルデアン図書館にあります。また新しいコピーが二つあり、ひとつはビルミングハムに、もうひとつは私たちの図書館にあります。

5. テグラス・テグロソ(Mercatura Mercaturarisum)の書は中位のサイズで弁証法と哲学に関する3冊からなります。知恵の乳脂の要約版です。彼はこれを1276年以前に編集しました。6つの写本があり、最も古いものは1276年5月20日に筆写されました。首都大
主教エフライム・カウィミにより筆写されたコピーにはこの本はアラビア語に翻訳されたとの言明がありますが、私たちはアラビア語でこの名の本は持っていません。

6. クソボ・ダ-スヲダ・ソフィア(知恵の言葉の書)は、小さな本で4部からなり弁証法と哲学に関するものです。彼はこれを1275年以降に執筆しました。ヘルマン・ジャンセンはこれを出版しましたが、24の写本を元にしました:その最も古いものは2冊あり、一つはシカゴにある1299年に筆写されたものです。もう一つはロンドンにある1330年に筆写されたものです。彼はこれをフランス語に翻訳し1937年に出版しました。私たちはこれを改訂し原本と照合しフランス人翻訳者のいくつかの間違いを訂正した後、1940年、1608年に筆写されたコピーに従い、著者の死後まもなく作成されたと私たちが考えている、すばらしいアラビア語訳のものを出版しました。

7. クソボ・ド-ボボソ(瞳の門人の書)。これは論理学と哲学に関する小さな本で、7部構成でわずか40ページのものです。

8. 人間のたましいに関する二つの論文は、一つは短く、一つは長いもので、彼が俊逸なアラビア語で執筆したものです。一つ目は62章26ページからなります。もう一つは26章74ページからなります。後者は1252年以前にメリテネの都市大
主教ディオニシウス・アンジュルの要望に応え執筆されたものです。1928年に初出版されました。ウエスト・ニューヨークには13世紀末から次世紀初頭に完成された華麗に装飾された写本があります。1938年、私たちはこれを、最近の写本に基づいていた最初の出版者の間違いを訂正し論評加え再出版しました。

9. キタブ・アル-イシャラト・ワ・アル-タンビハット(兆候と療法の書)論理学と哲学に関するイブン・シーナの著作。彼は1278年以前にフラゴの医師長であった、東の人シモン・トーマス司祭の要望に応え、この本を俊逸なシリア語に翻訳しました。これは彼のシリア語と翻訳に関する専門技術の高さを示すものです、彼はシリア語の歴代記の中でこの書について言及しています。この特筆に価する翻訳はアラビア哲学に関する現代の著述家たちにより、遠まわしにも言及されずにいました。この翻訳の古い写本がフローレンス図書館にありますが、バルツーリのヨハンナ・バッカスによる1278年のものです。そのほかにも5つの写本があります。この写本は美しい字体による大判218ページを収容しています。

10. キタブ・ズブダト・アル-アスラル(秘密の乳脂)は、哲学に関するアシル・アル-ディン・アル-アブハリ(1266年没)の著作で、彼はアラビア語からシリア語へ翻訳しました。すでに失われてしまいました。
バル・ヘブライオスが独学で哲学を学んだことは知っておくべきでしょう。彼はアリストテレスの哲学を十分理解し、知恵の乳脂第一巻は彼の著書の順序にあわせ、彼の方法に習いました。彼はアリストテレス以降15世紀の間にさまざまな著述家たちにより書き加えられたものよりむしろ本文に注目しました。物理学を扱う私たちのすべての知識人たちと異なり、彼はアリストテレス著作のテキスト原典もしくは翻訳を新しい体系的著作集に沿って学びました。オリエンタリストの中には、私たちの著述家には取り上げられてこなかった、ギリシャ語の言い回しを問題として強調していることを理由に、彼はアリストテレスの書魂に関してをその原書ギリシャ語で学んだと主張する人たちがいます。彼がギリシャ語を知っていたというのは考えにくい話ではありませんが、知っていた証拠もありません。しかし、このような明晰な人物ですから、シリアに滞在した長い期間の間にギリシャ語を学び得たとしてもありえない話ではないでしょう。彼はイブン・シーナの作品のほか、ファカ・アル-ディン・アル-ラジ(1210年没)や彼の同時代のアル-アブハリ、ナジム・アル-ディン・アル-カズウィニ、ナシル・アル-ディン・アル-ツシ(1276年没)ら、彼とこれらの主題を議論した哲学者たちの作品をアラビア語で学びました。イブン・シーナの思想が彼に絶大な影響を与えたことはすでに述べたとおりです。イブン・シーナを称えて彼は明言しています。「イブン・シーナがアリストテレスの才を得たとき、彼はそれをたったの5倍にしたのではなく50倍以上にしたのです。」オルガノンと物理学でも形而上学と同様彼はアリストテレスの足跡に習いました。彼は彼の行程からそれることがありませんでしたが、イブン・シーナの見解に習うときは別でした。事実、彼は魂とその体との関係に関してはイブン・シーナの思想の方を好みました。第2巻で彼は、13世紀に知られていた神学原則により忠実に論題を扱っています。死が彼に彼の創造的な思想の収容された哲学の書を書く機会を与えなかったことは、すでに述べたとおりです。

11. クソボ・ド-フドエ(ノモカノンもしくは手引き書)は、彼の書の中でも俊逸なことで知られています。541ページ、40部構成からなり:1)教会とその統治、2)洗礼、3)塗油、4)聖体、5)断食と祝日、6) 葬儀、7)司祭職、8)所有と結婚、9)意思、10)相続、11)売買、12)信用取引、13)抵当、14)賠償金、15)和解、16)送金、17)保釈金、18)共同経営、19)代行権限、20)入場料、21)質物、22)現物貸与、23)贈与、24)教会遺贈、25)先買権、26)貸借、27)物納契約耕作、28)荒廃地、29)傾斜(leans)、30)拾得物、31)行方不明の子供の発見、32)奴隷の解放、33)窃盗罪、34)重罪、35)獲物の屠殺、36)宣誓、37)誓約、38)訴訟と法的権限、39)証言と証人、40)異議のない裁判。この書は147章からなります。彼が典拠としたのは使徒に帰される教会法(複数)、クレミスの8書に復元されたアッダイの教え、アンキラ、新カイサリア、二カイア、アンティオキア、ガンガラ、ローディシエア、コンスタンティノプール、セレウキア、カルケドンでの公会議と、クレミス、アテネのディオニシウス、キプリアン、アレクサンドリアのディオニシウス、エウスタティウス、アタナシウス、バシル、セオロゴス、コンスタンティノプールのエヴァグリオス、ラブラ、アレクサンドリアのキリル、ティモテ、マブグのフィロクセノス、タラのヨハネ、アンティオキアのセヴェルス、ある主教からキリキアのリンサス村にある二つの修道院の修道長へ宛てた書簡、アレキサンドリアのテオドシウス、アミッドのキリアコス、エデッサのヤコブ―42の教会法は彼から引用されました―、私たちの総主教アンティオコス・グレゴリウス1世、キリアコス、ディオニシウス1世、ヨハネ4世、イグナチウス2世、ミカエル1世、そしてビザンティン帝国の勅令、最後に彼自身の思想とあいまったはかり知れない典拠があります。彼は教会規約となったこの書をフドエの書を呼びました。この書は主教達が彼らの教区の民事裁判に関して幅広い権威を持っていたことを示唆しています。このことはカルディナル・マイのような西洋権威に賞賛されています。この書には8つの写本があり、最も古いものはエルサレム図書館にある14世紀初頭に完成したものです。1895年ベドジャンは1488年に筆写されたパリ写本に従い、これを出版しました。ずいぶん昔にこの書はラテン語に翻訳されましたが、翻訳間違いで台無しにされています。16世紀末には貧弱なアラビア語に翻訳されました。

12. エシコン(倫理)は宗教的義務からなり、祈りの義務で始まり、聖典とエジプトの苦行者の知恵と彼らの年代記からの証言に支えられた様々な作法の8つの祈祷により彩を添えられています。この書は1279年6月15日マラガで完成されました。4編の論文を収容しており、各論文はさらに部と章に細分されます。一つ目の論文は身体の鍛錬、二つ目は身体の保持手法、三つ目はみだらな愛欲からの魂の清め、四つ目は魂を徳で彩ることに関し16章からなる他よりはるかに長文なものです。この書は420ページを収容しています。この書の古い写本は4つあり、最も古いものはモスルのカルデアン図書館にあります。これは1292年に完成されたものです。この書はベドジャンにより1898年に出版されヒムスの修道士ダビデにより貧弱なアラビア語に翻訳されました。その翻訳の写本はオックスフォードにあります。

13. クソボ・ド-ヤウノ(鳩の書)。苦行鍛錬に関する概説。かれはエシコンを書き終えたのち、苦行嗜好者たちの提案でこれを執筆しました。4部からなり、第一は修道院における身体的奉仕、第二は独房で遂行される霊的奉仕、第三は熟達者の精神的探索、第四は著者の知識の発展に関するものです。黙示により彼に示された事柄もあります(全部で約80あります)。書全体は80ページを収容しています。著者はこれを聖霊の象徴である鳩と呼ぶことを明言しています。この書は1299年ごろキタブ・アル-ワルカ・フィ・イリム・アル-イルティカの書名でアラビア語に翻訳されました。私はマルディンのアブ・アル-ハッサン・イブン・マハルマの手によるその良く出来た序文を見ました。シカゴ大学にはこの書の1290年に執筆された古い写本があり、もう一つはオックスフォードにあります。著者がマラガへの途上執筆していた物語の冒頭である、精神の若さについての1章が補遺として加えられましたが、死がその完成を阻みました。この書はベドジャンにより、さらに1916年修道士ヨハンナ・ドラバーニにより出版されました。

14. 教会史2巻。第1巻は使徒の長、ペトロから1285年までのアンティオキアの総主教の歴史を収容しています。第2巻は東方カトリコス(Catholici)とマフリアンの歴史を収容しており、使徒聖トーマスに始まり、没年までの彼の長い自叙伝で終わります。彼はこの年代記の中に、彼ら(ネストリアン)の歴史家マリ・イブン・スレイマンに習いネストリアン・カトリコスについても記録しました。この歴史の冒頭に彼は最初の3世紀にさかのぼる伝記を載せましたが、立証は不可能なものです。この書はバチカン、オックスフォード、エルサレムに古い写本があります。この書は633ページからなります。ラテン語に翻訳されアッベロースとラミーにより1877-1879年に出版されましたが、その縦糸と横糸が誤解と虚偽で作られた序文が付いています。

15. マカサバヌス・ザブネ(歴代史)創世に始まり1285年までのもの。彼は非常な緻密さと正確さを持って、この書に世界、国々、知識人の歴史を組み入れました。彼の典拠はエデッサのヤコブと偉大なミカエルの歴史と彼がマラガの図書館で見出したシリア、アラビア、ペルシャの歴史でした。この歴史書の写しは先に述べた図書館で見出されます。1890年ベドジャンにより出版され、また英語にも翻訳され1932年ブッジにより出版されました。

16. タリカ・ムクタサル・アル-ドゥワルは、彼の世界史の概要版であり、彼はマラガのイスラム教徒知識人の要望に応え、彼が亡くなる少し前にこれをアラビア語に翻訳しました。この書は3ページ―1月分を除いて完成させられました。彼はこの書にアラビアの歴史から引用したアラブの知識人に関する有益な情報を組み込みましたが、キリスト教知識人に関する事件を除き、逐語的に引用したものもあります。彼は彼の作品を10の王国、古代族長たち、イスラエルの士師と王たち、カルデアンの王たち、ペルシャ人たち、ギリシャ人たち、異教徒たち、キリスト教化したローマとギリシャ、イスラム教徒のアラブそしてモンゴルの歴史に従い編纂しました。この書は522ページからなり、6つの写本が;フローレンス、パリ、ロンドン、オックスフォードにあります。1663年ラテン語への翻訳も行ったポコケにより初出版されました。1783年にはバウエルによりドイツ語にも翻訳され1890年修道士アントン・サルハニにより出版されました。

17. クソボ・ド-セムヘ(光の書)は、間違いなくシリア語文法の最傑作です。彼は文法の学生たちの要望でこれを書き、東方・西方両シリア人の文法的原則に沿ってこれを編集し、新しい原則とアラビア語からの借用を組み入れました。4部に分けられ:名詞、動詞、冠詞、集合となっています。文法学者と生徒たちにとってこの書は規約的な文書となりました。352ページからなり、数多くの写本がありますが、最も古いものはフローレンスにあります。その他の写本は、ザフラン、ロンドン、ニュージャージ、エルサレム、オックスフォード、ボストン、そして私たちの図書館にあります。マーティンにより、その後パリのアクセル・モベルグにより1922年に出版されました。

18. クソボ・ダ・グラマティキ(文法入門)は7音節韻律の詩歌形式で執筆されています。彼はバクダッドで、注釈と傍注も合わせ2週間でこれを作詞しました。数多くの写本がありますが、最も古いものはシカゴ大学にあります。フローレンスには修道士ダニエルの手によるものがあり、私たちの図書館にも一冊あります。これらの写しは後の文法学者たちにより作られたアラビア語注釈を収容していません。その他の写本はビルミングハム、ザフラン―これは計り知れないほど貴重な写しです―、パリ、エルサレムにあります。この書はマルティンにより出版されています。

19. クソボ・ドーバルシスト(火の粉の書)は、未完に終わった三つ目の文法書です。大作であったといわれています。しかし、彼の書の目録では概論と呼ばれています。この書は失われてしまいましたが、彼の前述の書の終わりで著者が言及しています。

20. クソボ・ド-スロコ・ハウノノヨ(精神の上昇)は天文学と天地学に関するものです。彼は1279年、東方の人シモン・トーマス司祭の要望に応えこれを執筆しました。この中で彼は天文学を科学的に議論し、絵と幾何学的図表を用いて説明しています。この書は2部になっており、第一部は8節、第二部は7節あります。この書は257ページになります。1895年にパリ、オックスフォード、ケンブリッジにあった4つの写本に基づき、フランソワ・ヌーによりフランス語に翻訳されました。これらの写本の中で最も古いものは14世紀に筆写されました。

21. ユークリッドの幾何学解説書は1272年に完成されたもので、彼の教会史の中で言及されています。

22. プトレマイのメギスト解説書は、天文学と天体の動きに関するもので、1273年マラガで完成されました。彼は、アンダルシア(スペイン)人ムハイ・アル-ディン・イブン・ムハムマド・イブン・アビ・アル-シュクル・アル-マガリビを紹介した後、この小論の要約と内容について解説し、この書の顧みられなかった序説についての説明を加えています。彼はまたこのわかりにくい経過を解明しています。この書の冒頭で彼はこの著者の名を賞賛して述べています。

23. 複数の天文学表と移動祝祭日を定めるための天文暦を収容した書。この書は失われてしまいました。

24. ディオスコリデスの(De Medicamentis Simplicibus)薬草医学とその有効性と完全性のアラビア語からシリア語への翻訳。この書も失われてしまいました。

25. 当時知られていた医学理論の全てを収容した書。これも失われた大作です。

26. イブン・シーナによる四冊の教会法(アル-カヌン・フィ・アル-ティッブ)の未完のシリア語訳。これも失われてしまいました。

27. アブ・ジャファル・アフマド・イブン・ムハムマド・イブン・カフライド・アル-グハフィキ(560A.H/紀元後1164年没)によるアル-アドウィヤ・アル-ムフラダ(薬草の書)のアラビア語の選集。この中で次のように言明がなされています:「この書は当時の類まれな人物であり、最高の知識人、敬虔な聖なる神父、真実の黙示者、難問の解明者である東方マフリアン、グレゴリウスにより選出されました。どうか神が彼の幸福を完成し彼の地位を確立してくださいますように。」
 バル・ヘブライオスはこの書を3巻から選出し、薬に関する知識をより手近な物としました。この書の巻末で彼は言明しています。「哀れみ深い神を必要とする卑しい僕、マフリアン・グレゴリウスは申しました。「こうして私はこの要約書において、薬品の選択と説明、経口薬と塗油を除外し、特に最も有名で効能のあるものに自分を限定することに決めました。携帯性と包括性にもかかわらず、この技術に行き届いた有益なものとなりました。」」146ページのこの書の写しは、カイロのダル・アル-クトブ(国立図書館)No.1032の中で発見されました。684A.H./西暦1285年イスラム暦第3の月の終わりに、著者の時代の一般的な書体で執筆されたものです。マックス・メヤルホフ博士とジョージ・サブヒはこのうち43ページを英語に翻訳し1932年に出版しましたが、Aで始まる範囲だけが扱われています。私たちは彼らの序文から11箇所間違いを発見しました。もし彼らがテキストに母音符号を付けていたならずっと優れたものとなっていたことでしょう。この書には第二写本があります。

28. 身体器官の機能についてのアラビア語の書。この中に彼は調剤学に関する医者達の知識の全てを詳細にわたり積み上げました。この実用的な書は失われてしまいました。

29. アラビア語で執筆されたヒポクラテスの金言集解説書。小さな書でシリア人医師ハダヤト・アラー・カラビにより1640年に筆記された一部の写しが私たちの図書館にあります。1938年に私たちがダマスカスで発見したものです。

30. アラビア語で執筆された医師フナイン・イブン・イサクによる医学的諸問題解説書で、解毒剤に関する部にまで及び、それはこの書の約三分の二を占めます。彼の死により未完のまま残されました。私たちの先に述べた写本の中に収容されています。

31. 著者不明のヒエロテオスの書概要解説書。122章190ページからなる小さな書です。彼はこの解説を修道士たちの要望に応え執筆しました。バル・ヘブライオスはこれに収容されている汎神論思想とは何の関わりもありません。ロンドンにこの書の写本が複数あり、そのうちのひとつは彼が解説書の中で使用したものです。そのほかの写本は私たちの図書館、パリ、ベルリン、そしてザフランにあります。

32. 30編の頌歌と100編以上の2行から10行に渡る短編の詩集。12音節韻律で作詞され、そのほとんどは叙述、知恵、友好、賛美、風刺、賛辞に関するものです。これらの詩の一つは友人の長い不在に関し、彼への贈り物が遅れたことを詫びています。そこにはキリスト教徒に降りかかった不正行為が暗喩されています。知恵の愛、魂の清め、世を愛することの虚しさ、魂についての独白、と天の驚嘆すべき創世についての96行頌歌、被造された存在と理性的な魂の性質に関する人々の異なった思想に関するものもあります。この頌歌で彼は、来る世の幸福のための、この世の事柄と快楽に対する彼の拒絶と、衣食住といった必要なものへの彼の満足を詫びています。そのほかの頌歌には、葡萄酒に喩えた神の愛に関する60行の詩、愚かさへの知恵の叱責、1277年にバクダッドで詩作された完全性に関する304行の哲学的頌歌があります。シャム・アル-ディンという名の王子の要望に応えて、彼はこの完全性に関する頌歌を基にした頌歌を詩作しました。イエシュ・ヤブとその他のカルデア人作家等も同じことをしましたが、彼らの書いたものはこの頌歌の歪曲です。春、賛美、賛辞と知恵に関する彼の頌歌、とくに彼の160行の神聖な知恵に関する頌歌については、すでに8章と9章で言及しました。彼の詩集は多くの傑作を収容していますが、彼がまだ若いころに詩作され修正する時間が無かったと考えられる貧弱な詩もまた収容されています。
 この詩集には二つの写本があり、ひとつはオックスフォードに、もう一つはビルミングハムにあります。マロン派の修道士アウグスチヌス・シャバビにより1877年に初出版されました。司祭ガブリエル・キルダヒは神聖な知恵に関する頌歌を出版しました。修道士司祭ヨハンナ・ドラバーニは1929年エルサレムできちんとした版を出版することに成功しました。これは7音節韻律の頌歌二つが含まれていません:一つは聖3者に関するもの、もう一つは1282年ごろカトリコス、デンハ一世の依頼により詩作された非常に長い歴史的、教義的頌歌です。この頌歌はチャボットにより出版されました。

33. 「憐れみ深き主よ、御身の憐れみは全ての民に」で始まる典礼文。この彼の名を冠する典礼文は明らかに彼の作です。もう一つの典礼文で「死ぬことなく寛大な方」で始まるものは実際のところ彼の作ではなく、すでに述べたようにバルツーリのグレゴリウスに属するものです。1282年、バル・ヘブライオスは、主の兄弟聖ヤコブの典礼を短縮もしましたが、これは短い典礼として知られています。1282年1月29日彼は又、公現祭の水清めの儀式に関する解説書を執筆しました。

34. 小咄の書は20章40ページに及び、賢者、王、教師、苦行者、医師、富豪、守銭奴、職人の年代記や動物を介して語られる物語をも収容しています。この書は1605年に筆写された不完全な写しがコンスタンティのプールにあります。修道士ルイス・チェイクホは同年に筆写された、この書の母音符号付アラビア語の古い写しを出版しました。

35. 彼が若いころ執筆した夢の解釈に関するあまり重要でない論文。

36. 棕櫚の祝日に関する説得力のあるアラビア語の訓戒。私たちはアゼカでこの写本を発見し出版しました。この本に記載された情報によれば、彼は数多くの論文、なだめの祈祷、書簡を書いたのですが、総主教ニムラドに宛てた書簡を除き全てが失われたようです。

 バル・ヘブライオスはアルメニア語と複数のペルシャ言語にも精通しており、その全ての側面を完全に把握したシリア語の大家でした。さらに彼はアラビア語に精通していました。彼のシリア語文体は大変力強く、明快で魅力的です。読者は彼の本の中に潜るときいつでも類まれな貴い真珠を見出しました。読者はその読書を終えるとき大きな畏敬の念で頭を下げたことでしょう。作家の第一人者、知識人の王、そして間違いなく最も有名なシリア人学者である彼へ。

資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES / PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM
,p152-158

   
トップページへ  Meriam & Joseph @2003. リンクは大歓迎、フリーです。転載の場合はご連絡下さい。